雨上がりの夕焼け空
「雨……」
灰色の雲に覆われた空を見上げて、ぽつりと呟いた。立ちどまり、掌を上空に向かって差し出すと、そこに滴ったのは水煙のような細やかな霧雨だった。しかし雨量は意想外に多い。通り雨ではないらしい。
腕時計を見る。午後二時。
こちらに来て、天気予報がより嘘つきになったように思われるのは、気のせいだろうか。
「夕方からだって言ってたのに……」
そう悪態をついてから、気のせいではないに違いないと、根拠もなしに思った。「日米間における天気予報の精度差」――比較文化論の研究テーマにどうだろう。なんだかいい感じだ。
そう考えると少しだけ気分がよくなった。走って帰ろう、と私は思った。そうすれば、家はすぐ近くだから、本降りにならないうちに帰宅することができるはずだった。風邪も引きたくなかった。
けれど私は、右足で大きく体を前方へ押し出そうとして、――やめた。
再び空を見る。
分厚い雲は、何とも言えない不気味な暗さだった。
――まあ、いいか。
先ほどまでと同じゆっくりとした歩調で、再び歩き出す。
雨脚は次第に強まっていく。柔らかな雨粒の紗が降りかかり、私の体の上を流れ去って、やがて何処からか吹き上がる風に紛れた。そうしていつしか周囲は一面の水しぶきと化し、雨音も聞こえない深い沈黙に包まれながら、輪郭すら朧な町並みは、皆一様に霧の底だった。
そういえばこの国に来たときもこんな天気だったと思い出しながら、どんどんと濡れそぼっていく髪と服とを感じた。
雨に打たれてもいいかな、なんて思ったのは、きっと憂鬱な気分だったからだ。
朋也くんは最初から反対しなかったし、口に出さないだけで心の中では反対していた、なんてこともないとは思う。けれど私のアメリカ留学が決まったとき、心中に暗い気持ちが生まれなかったと言ったら、それはきっと嘘になるはずだ。お父さんの鞄が帰ってきたあの日から、ずっと続いていた私たちの楽しい日々に、初めて翳が差したのだから。
私も迷いはした。朋也くんはもちろん、杏ちゃんや椋ちゃん、渚ちゃんとは離れたくなかった。でも勉強したいこと、知りたいことは、一生かかっても学び尽くせないくらいたくさんあって、悩んだ末に私は、大学に入ってからの留学を決心したのだった。
「頑張ってこいよ」
朋也くんはそう言ってくれた。それは椋ちゃんも渚ちゃんも同じだった。留学の話を聞いた直後はなんだか怒っているみたいだった杏ちゃんだって、最終的には笑顔で見送ってくれた。異国の地で今日までこうやって頑張ることができているのは、そうやって皆が気持ちよく送り出してくれたおかげだ。
四人との親交が途絶えたわけでは、無論ない。朋也くんは――口に出して言うのは今でも恥ずかしいけど――恋人だし、好きとか愛してるとかいう感情以前に、私になくてはならない人なのだとも思う。杏ちゃんも椋ちゃんも渚ちゃんも、大切なお友達だ。けれど違う道を歩み始めた私たちに顔を合わせる機会はほとんどなく、それどころか時差があるため、電話で話すことすら稀だった。必然、メールがコミュニケーションの主な手段となる。
会えないのは寂しい、声を聞けないのは辛い、とは思うけれど。
それでもこの現状に、文句は何もない。
そのはずだ。
雨に濡れながら帰宅した。
床を濡らしてしまわないよう、すぐに洗面所のタオルで体を拭いて、着替えた。服はすぐさま洗濯機に放り込んだ。
一連の作業を終えて、ふう、と息をつく。
何気なく部屋を見渡した。
大学に近いという理由だけで選んだこの部屋は、なかなかに手狭だった。そんなに広い部屋は必要ないだろうという予測は、日本に帰るときどうしようって思うくらいに日々増殖を続ける書物たちに、あっさりと破られていた。当たり前だが日本よりも洋書が手に入りやすいので、思わず買ってしまうのだった。結果、既に書籍は生活空間のおよそ半分を占領しつつあり、このままでは足の踏み場がなくなるのも時間の問題だ。
「……どうしよ」
無意識のうちに呟きながら、窓からの光を遮っているカーテンを開いた。
しかし陽光は見えず、曇天の下で町は雨に濡れている。
食事も外で済ませてしまってあるし、取り立ててすることもなかった。この雨の中、再度出かける気にはならないし、そもそも外出するのはあまり好きではない。
こんなときはやはり、読書に限る。
ふと、あの思い出の本を読みたくなった。
本棚の一番取りやすいところに、その本は今でも置いてある。
手に取って開いた。狭い部屋の隅っこに座り込んで、活字の世界に没頭し始めた。
部屋が狭い。
それは、嘘だ。
たびたび、こんな狭い部屋にもかかわらず、広すぎるな、と思ってしまうことがある。
どうしてだろう?
簡単だ。
いつの間にか私は、一人で時間を過ごすことに、酷く不慣れになってしまったのだ。
どんな部屋も、一人では、広すぎる。
電話がかかってきた。読みかけの本を置いて受話器を取ると、同じ研究室の友人からの電話だった。彼女は挨拶も抜きに訊いてきた。
「明日、誕生日だったよね?」
「え?」
「誕生日」
「うん、それはそうだけど……でも、毎日が誰かしらの誕生日なの」
「――は?」
「明日だと、ジョルジュ・ブラック、マリア・テレジア、ロナルド・ロス……」
「違うわよ」呆れたような口調だった。「あなたの誕生日かどうか訊いてるの」
「私?」
「そう」
「――あ、うん。お誕生日なの。私の」
「誕生会開こうかーとか言ってるんだけど、どう? ――それとも、一緒に過ごす彼氏でもいる?」
「いるけど日本にだから、一緒には過ごせないの」
「そっか。残念ね。――よし、私たちがその寂しさを紛らわせてあげるから。明日は楽しみにしてなさい」
「うん。ありがと」
また明日、と告げて受話器を置く。
そういえば、明日は五月十三日で、私の誕生日だった。キュビスム画家やオーストリア大公やノーベル生理学医学賞受賞者の誕生日でもあるけれど、私の誕生日でもあった。
誕生日が来たとなると、もうすぐ渡米して一年になるんだな、なんて考えた。
この国にやって来たときのことが思い出された。印象的だったのは、アメリカでの生活が、拍子抜けするほど楽だったことだ。雨の降りしきる空港に降り立ったときには、不安で泣きそうにもなったけれど、いざ住まいを決めて大学に通い始めてみれば、日々の生活は楽しいものだった。
文化の差は言うまでもなくあって、戸惑うことは数多かった。私が楽だった、と言いたいのは、そういう部分ではなくて。――そう、それはたぶん朋也くんたちのおかげだ。心を閉ざしていた私に、心を開くすべを教えてくれた皆のおかげ。だから私はこちらにやって来てもそう苦労することはなかったし、それほど多くはないけれど友人もできた。私は彼女たちのことが好きだし、彼女たちも私を好いてくれていると考えていいと思う。だって、頼んでもいない誕生日会を、わざわざ催してくれるというのだから。
――でも、どうして皆、ヴァイオリンだけは聞いてくれないんだろう?
心の中でそんなふうに呟きながら、本を再び手に取る。
壁越しに聞こえる雨の音が、不意に遠くなったように感じた。
問題はないはずだ。この日常には、何の問題もないはずだった。
けれど私は、憂鬱な気持ちを隠すことができずにいるのかもしれない。それはホームシックなんかじゃなくて――なんて言っていいか、ちょっと思い浮かばないけれど、でも気分はとても重い。
たとえば、ふとした拍子に思い出してしまうのだ。皆で集まりたいね、という渚ちゃんからのメールの文面とか、電話越しにトランプ占いをしようとする椋ちゃんの声とか、そういう何気ない、けれど心の何処かに何らかの形で残るものを――。
あの一文が視界に入ったのは、そのときだった。
「君はタイムマシンでここに来たんだね」
読んでいるのがこの本である以上、その場面がいずれ訪れることは、わかっていたはずだった。
それなのに。
私は酷く、狼狽した。
まるで心のダムが決壊したかのようだった。この本にまつわる出来事が、皆で過ごしたあのひと夏の思い出が、次々ととめどもなく頭の中に湧き出してきた。それらは瞬く間に渦を巻き、溢れ出し、私はほとんど情動の波間に溺れそうになった。
そして――不意に気付いてしまったのだ。
この胸にわだかまる気持ちが、懐かしさなんだ、って。
過ぎ去ってしまった時間。皆で何の疑問もなく楽しく過ごせていた、高校時代の最後の一年間。
それこそ昨日を振り返る余裕もないくらい、毎日が楽しくて充実していた。まるで子供の夏休みみたいに、きらきらと透き通った日々だった。
戻りたいと願うわけではない。けれど、戻れないことが酷く哀しいような気もする。そんな時間に対する思慕。私の胸の内に潜んでいたのは、そんな想いだったのだ。
朋也くんはどうしてるだろう。
声が聞きたかった。
とても、とても聞きたかった。
でも、日本は今、夜だ。
電話機に伸ばしかけた手を、慌てて引っ込める。
明日になれば、きっと朋也くんは、誕生日おめでとう、って電話をかけてくれるはずだ。それまで待とうと思った。
「おとといは兎を見たの。きのうは鹿、今日はあなた」
代わりにそう呟いた。
雨の音がいっそう遠くなっていく。
暖かい何かに包まれる感覚だった。
……少し、眠ってしまったようだった。鳴り響く電話の音に、私は目覚めた。
床に放り出してしまっていた本を拾いながら、受話器を取る。
さっきの友人からだろうか。
――が、受話器から聞こえたのは。
「ハッピーバースデー、ことみ」
そんな、懐かしい声。
聞いた瞬間、思わず涙が零れ落ちそうになった。寸前で耐える。重く沈んだ心に、彼の声は酷く優しい。
最後に声を聞いたのはいつだっただろう、と考えた。たぶん四日前。なんだ、そこまで離れてるわけじゃない。さっきまでは、とても遠く感じられたのに。
「朋也くん」
「おう、朋也くんだ」
「――ありがとう」
なんだかよくわからないけれど。口をついて出たのは、感謝の言葉。
「ん、どういたしまして」
「――ありがとう」繰り返す。「ありがとう……」
一度では、届かない気がしたから。
どうか届きますようにと、願ったから。
「どうしたことみ」朋也くんは、ちょっと戸惑ったような口調で言った。「なんか変だぞ?」
「そんなことないの、お誕生日を一日間違えて電話してくる朋也くんのほうがよっぽど、変なの」
泣きそうなのを隠そうとして、私は早口でまくし立てる。
それに、看過できない間違いではあった。
すると朋也くんは、
「あれ? 誕生日、十三日だろ?」
「うん。今日は、まだ十二日」
「ことみ、ひょっとして寝ぼけてるか? 今日は十三日だ」
「え?」
そんなわけない――そう反論しかけて、やめた。時計を見た。眠っている間に日が変わってしまったということもなく、日付の表示は、確かに十二日となっていた。
そういうことか、と内心で呟いた。朋也くんの勘違いの原因がわかった。そして、その瞬間だった――最前まで泣きそうだったのが嘘のように、どういうわけか笑いが込み上げてきたのは。我慢しながら、私は言った。
「朋也くん。時差なの」
「え? ――あ」
つまり、日本では十三日でも、アメリカではまだ十二日なわけだ。頭の中で素早く計算する。たぶん向こうは朝の九時くらいだろう。
そんな致命的なミスを犯した彼に、おかしさを堪えきれなくなって、私は笑い出す。笑うなーと朋也くんは言うけれど、そんなの無理だった。やがて受話器ごしにも笑い声が聞こえてきて、私たちはしばらくの間、馬鹿みたいに一緒になって笑っていた。
口を閉じる。
「まあ、いいさ、明日でも」と、朋也くんは言った。「誕生日おめでとう、ことみ」
「うん。ありがとう」
「どうだ?」
「どうだ、って?」
「近状」
「元気なの。――そうだ、聞いて欲しいの。大学のお友達がね、明日、お誕生日会を開いてくれるの」
「おー、それは良かったな」
新天地で、はたして私に友達ができるのだろうか、とか悩んでいたに違いない朋也くんは、本当に祝福してくれているようだった。
「朋也くん、今日、お仕事は?」
「午後から現場に直接行けばいい。おかげでこんな時間まで寝れたわけだ」
「お寝坊さんなの」
「そうだな。ことみは、大学は?」
「えっと、研究室では、超弦理論と超重力理論の理論形式の整備と、格子ゲージ理論を用いた場の理論の非摂動解に対する量子重力、超弦理論、M-理論等のダイナミクスについて、つまりゲージ階層性を理解するための方法として――」
「……待ってください一ノ瀬さんちのことみちゃん」
「どうしたの?」
「いやもうなんというか……」
朋也くんは呆れた様子で言いよどんだ。何か変なことを言ってしまっただろうか、と少し考えて、気付く。
「あ、そっか」
「おお、気付いてくれたか」
「うん。説明を忘れてたの。朋也くんの理解が中途半端になってしまったのは当然だったの。超重力理論っていうのはね、要するに低エネルギー有効理論」
「もう許してください……」
何故か朋也くんは受話器の向こうで謝っていた。
「朋也くん、変なの」
「突っ込む気も起きん……」
なんだか疲れた口調だった。
「いや、ことみは今日は大学に行かないのか、と訊きたかったんだが」
新事実発覚。
なるほど、と思う。
「午前に終わったの。今日はもうのんびり」
「いいなあ……。俺はこれから仕事だ」
「頑張るの」
「無理ー……」
冗談めかして情けない声を出した朋也くんに、私はまた笑い声を上げた。そうしながら私は、心の中に溜まっていた沈鬱な感情が、残らず外へ流れ出ていくのを感じた。
これだけ笑ったのはどれくらいぶりだろう?
たぶん、そんなに昔のことじゃない。
「今ね、あの本を読んでたの」
「あの本? ――ああ、あれか」
それから少しの間があって、
「君はタイムマシンでここに来たんだね」
「ええ。わたしのお父さまが発明したの」
「なら、ここにはよく来るのかい?」
「もう何度も。ここはわたしのお気に入りの時空座標だから。何時間いても飽きないの。ここから見えるものは、みんなみんなすてき。おとといは兎を見たの。きのうは鹿、今日はあなた」
気付いたことがある。
時間的な隔たりでも、物理的な距離でも、なかったのだ。私を苛んでいた愁訴の原因はきっと、遠い、と無意識のうちに思ってしまう、私自身の心にこそあった。
だからもう、大丈夫。
以前のように、ずっと一緒にいるわけではない。連絡を取る回数だって少ない。だけどこうして話し出せば、私たちはまた、気持ちを伝え合うことも、心から笑い合うことも、できるのだ。
それがわかったから。私は、明日からまた、頑張れる。
「そういえば誕生日プレゼント贈ったからな。そのうち届くと思う」
「何贈ってくれたの?」
「秘密」
「いじわる」
朋也くんとの長い長い会話が終わって受話器を置いたとき、ふと、雨音が聞こえないことに気が付いた。
窓の外を見るといつの間にか雨は上がっていて、代わりに西の空に、大きな夕日が浮かび上がっているのが見えた。
窓を開けば舞い込んでくる風は冷たくて優しい。夕焼けの光に照らされて、流れゆく雲は、橙と紫と赤が交じり合った幻想的な色合いをしている。
雨上がりの夕焼け空は、とても、綺麗だった。