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 ――頼むから、今日だけは。
 心の中でそう祈った。今まで幾度となく祈りが届かなかったように、今回もまた、踏み出した足が地面に着かないのを感じた瞬間、身体の感覚が消え失せ、視野が急速に暗転した。靴を履いて玄関を開け、朝陽の眩しさに目を細めながら歩き出そうとした矢先の出来事だった。鈴の声が僅かに聞こえたことをかろうじて覚えている。
 目を覚ますと部屋で布団に寝かされていた。意識が鮮明になってアパートの見慣れた天井が視界に入るや、慌てて半身を起こした。窓の外は明るいが、部屋は電灯が灯されておらず薄暗い。壁掛け時計の長針が、最後に時間を確かめたときから二周りはしているのを見て、理樹は自分がナルコレプシーで眠り込んでいたことを知った。以前に比べれば稀になってきていたはずなのに、何故今日に限ってこんなに眠ってしまうのかと、自らの身を忌まわしく思った。
「おはよう」
 そう小さく告げた鈴は、部屋の隅で、膝を抱えて座り込んでいた。
「なんか凄く凄く長かったぞ。二時間くらい寝てた。もう十時だ。立てるか? 無理しないでいいぞ。今日はこれからどうする?」
 理樹は咄嗟に答えられずに黙り込んだ。そのことに文句を言う様子も見せないまま、鈴もやがて言葉を途切れさせ、沈黙した。音が絶えた途端、部屋の暗さが、重く際立って迫ってきた。鈴の目は赤かった。理樹が眠っている間、隅で一人、泣いていたのかもしれない。それはよりによって理樹が今日眠り込んでしまったことや、或いはもっと大きな何かの、残酷な理不尽さにだろうか。我慢しているだけで、本当は今も泣きたい気持ちで一杯なのだろうか。
 理樹は言った。
「ごめん」
「謝るな。蹴るぞ」
「ごめん」
「本当に、蹴るぞ」
「ごめん……」
 謝るべきでないことなどわかっていた。しかし他にどうしていいのかわからなかった。
 命日だった。朝早くから帰郷して、事故の現場に花を手向けた後、今頃は三回忌の法事に参加している予定だった。それなのに現実には、どういうわけか東京の家から一歩も出られずにいる。一人はナルコレプシーで眠り込み、もう一人はその枕元で膝を抱えて泣きそうになっている。ただ二時間ばかり眠り込んだことのみが原因とはとても思われぬ、抗いがたい徒労感にそのとき不意に襲われて、我知らず理樹は、どうして、と心の中で呟いていた。
 どうしてこんなに無力なんだ。どうしてこんなに理不尽なんだ。どうして、こんな場所にいるんだ。みんな死んで、自分たちだけが生き残って、それなのに法事にさえも満足に行けなくて、暗く狭い部屋の中、ただ二人して身を縮こまらせている――かつて仲間と共に過ごし、ずっと続けばいいと願ったあの楽しい時間とは似ても似つかない、こんな荒地のような場所に、どうして。
「理樹」と小声で名前を呼ばれた。鈴が理樹と視線の高さを合わせるように、低い姿勢のまま四つん這いでやって来た。理樹の、まだ力の入らない二の腕と肩に手をかけて、抱きつくように顔を近付け、「元気出せ」と言った。理樹は「え?」と目を丸くした。
「元気ないのは鈴のほうだよ」
「何言ってるんだ。理樹のほうが全然元気ないぞ。あたしは大丈夫だ」と言ってから一度黙って目を閉じ、また小さく告げる。「大丈夫だ」
「そっか」
 そうかもしれない、と理樹は思った。鈴が続けて言った。
「法事には間に合わないと思うけど、今からでも十分行けるだろ。行こう」
「うん」
「泊まりになっちゃうかもな」
「うん」
「明日学校サボればいいか」
「それは――いや、そうしよう」
「珍しいな。理樹がそんなこと言うなんて」
 そんな言葉を聞きながら、体を支えられて立ち上がったとき、理樹は、鈴の体の薄い感触とほのかな暖かさとを感じて、今、鈴はここにいる、という当たり前のことを、強く思った。あまりにも当たり前すぎて、そんなことを今更のように実感する自分が、なんだかとても馬鹿みたいだった。


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