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白い柩








『snow』 名詞(複数形 〜s) 雪 《盲目、死、純粋さなどの象徴》








prologue

 街には雨が降っていた。
 水のベールの向こう側を通る車のヘッドライトが、淡く幻想的に光り輝いた。紛れ散らばった光、全部地上に降り注いだ。
 美坂香里は傘を差して、家路とは別の道を歩いていた。本来なら部活もなく、まっすぐ家に帰るのだけれど、今日は寄る場所がある。
 そういえば、久しぶりに行くのかもしれない。車が姦しく往来するその光景を見て思う。彼女の家に行くのは、とても久しぶりだ。だから、酷く懐かしい。
 川の傍を、雨が水面を叩く音を聞きながら、通り過ぎる。左折すれば、目的地はもうすぐそこだった。
 雨は慣れない。この時期に降るのは、必ずと言っていいほど雪なのに、どうしたのだろう、今日は雨だった。久々の雨に、街が全く違ったものに見える。別の場所を歩いているような錯覚さえした。
 でも、この場所は変わらない。やっと到着した目的地――水瀬家を見て、そう思う。なんの躊躇いも見せずに、香里はインターホンを押した。
『はい?』
 インターホンの向こう側で、少し間抜けな声がした。声はちょっとだけ嗄れている。風邪を引いているのだから、しょうがない。
「あたしよ」
『あっ、香里ー』
 名雪は、病人に似合わない明るい声を上げた。
「入るわよ?」
『うん。今、鍵開けるね』
 門を通り抜け、ドアの前に立った。傘をたたみ、ふと空を見上げる。
 きらきらと。
 雨が降り注ぐ。静かに。穏やかに。
 後ろで、開錠する音がした。扉が開く。出てきたのは、猫模様の半纏に身を包んだ名雪だった。「わ、どうしたの?」と驚いた様子で訊いてくる。
 一瞬、彼女が何を言いたいのかわからなかった。でもすぐにわかった。雨の降り注ぐ暗い空を、一心不乱に見上げている姿は、「どうしたの?」と問う程度には異常なものだろう。
「……なんでもない」
 香里は微笑んで言った。
 名雪が頭に、百個ほど疑問符を貼り付けている間に、香里は鞄から、渡すべきプリント類を取り出した。名雪はもう、三日も風邪で学校を休んでいた。
「元気そうじゃない」
「うん。明日からは、学校に行けるよ」
「よかった。結構、寂しいんだから。名雪も休み、北川君も休み。名雪の隣の席は元から誰もいない。視界が開けて、先生の注目の的だわ」
「大丈夫だよ。香里、頭いいもん」
「頭がいいかは別として、テストの点は学年で一番いいわね」
「うん。――家、寄ってく?」
 香里は、少しだけドアを大きく開き、そう問うた名雪に、申し訳なさそうな顔を向けた。「ごめん、もう行かなきゃ」
「何処か行くの?」
「北川君の家にも、プリント届けなきゃいけないの。それに、名雪は一応病人なんだから、おとなしくしてなさい」
「はーい」
「よろしい」
 香里は踵を返した。傘のボタンに手をかけたところで、思いついたように、「そういえば、名雪――」と言った。
 また空を見上げる。豪雨とはいえないまでも、それなりの降水量。ともすれば声が掻き消されてしまうくらい、雨音は強い。
「――いや、なんでもないわ」
 そのまま香里は傘を差し、歩き出そうとした。首を傾げた名雪は、だが、雨の降る空を見て、香里が何を言いたかったかわかったようだった。笑顔を浮かべて、彼女は「初めて会った日、みたいだね?」と言った。
「……ええ、そうね」
 それだけ言って、香里は今度こそ水瀬家を離れた。後ろで、名雪が無邪気に手を振っていた。軽く手を振り返して、足早に歩く。
 そう。
 美坂香里と水瀬名雪の、出会いの日。
 あの日も、こんな雨が降っていた。





1.

 三年前、晩秋。


 これから本格的に冬になろうという季節だった。
 もうすぐ、雪が降り始めるだろう。窓の外では、たぶん今年はこれで見納めになるであろう驟雨が、何もかもを流れ落とそうとしているかの如く降っていて、その滲んだ風景を、授業中の教室から、美坂香里はぼんやりと眺めていた。
 授業は聞いていてつまらないものだった。十分あれば理解できることを、五十分間の授業で教えるのは、四十分という時間の無駄遣いだということに、何故誰も気付かないのだろう?
 静かだった。チョークが黒板を叩く音しか聞こえない。
 雨で硝子の透明は濁っていた。
 ここが何もない、酷く空虚な世界に思えてくる。
 これ以上外を眺めていると、先生に注意されると思い、香里は視線を教室の中に戻した。授業は英語だった。

 I like the song (   ) she is singing now.

 黒板に書かれた英文の一つを見て、香里は心の中で失笑する。括弧の中に、適当な関係代名詞を入れろという問題だ。これでthatかwhich以外の単語を入れる人間がいたら、見てみたいものだと思った。或いは、何も入れないか。
 しばらく真面目に授業を受けていたが、退屈になって、香里は再び視線だけを窓の外へと向けた。雨は降り続いている。暗い空だ。
 香里は雨が嫌いではなかった。むしろ、晴天よりよほど好きだ。自分がいる部屋だけが、世界のすべてのように思われて……。
 チョークと黒板がぶつかる音が、やんだ。
 前を見る。黒板に記された問題に答える生徒を、先生が指名していた。香里は指名されなかった。
 旧友たちが問いに答える姿を見ていると、不意に視界の中に、主のいない席が入った。
 教室のほぼ真ん中。周りの席には、すべて誰かしら座っているのに、そこだけ誰も座ってはいなかった。その光景は、酷く寂しげだった。
 いわゆる、登校拒否というやつだ。その席に座るべき人物は、中学二年生の秋ともなろう今日に至るまで、一度も学校に来たことがない。いや、来たことくらいはあるのかもしれなかったが、少なくとも香里たちと同じように授業を受けたことはないはずだった。
 その人物の名は――。
「……水瀬名雪」
 小さく呟くと、隣に座っている男子が、ちらとこちらを向く。無視して、手元の教科書を見た。酷く簡単だけれど、彼女にしてみたらどうなのだろうと思った。学校に一度も来たことがないということは、勉強もしないということなのだろうか。それとも、独学?
 香里は自嘲気味に笑った。すべてを知っているように気取っていて、結局知らないことがたくさんある自分が、少しだけおかしかったのだった。


「美坂!」
 放課後、図書室にでも行こうかと席を立ったところで、友人の北川潤が話しかけてきた。
「……何?」
 うっとうしそうに応じる香里。が、彼女の場合、まともに会話を交わすというだけで、相手をそれなりに認めているということになる。
 北川と出会ったのは、中学校に入学したその日だった。要するに、クラスが同じだったのだ。
 最初は軽薄な人物かと思っていたが、話してみると、そのような体面の下に、強い意志を持った人物だとわかった。それ以来、たぶん男子では唯一、香里とまともに会話する人物となっている。
「頼む!」その彼が、香里に懇願していた。「俺の代わりにプリントを届けてくれ!」
「嫌よ、面倒くさい」
 学校を欠席している人間の机には、当然プリントが溜まっていく。その中には、数日中に見せなくてはならないような、重要なものが含まれている場合もあるわけで、その場合は生徒の誰かが、欠席中の人間に届けることになっているのだ。
 北川は、その役目を先生に仰せつかったらしい。
 で、それを香里に押し付けようとしていた。
「お願いだ、美坂、今日大切な用事があるんだよ」
「何処に遊びに行くの?」
「ああ。隣街のゲーセンに、新機種が入ったから、斉藤と一緒に……って、何故わかるんだ!?」
 突っ込む余地もない、完全な自爆だった。
 遊戯で仕事をさぼることが、悪いことだとは思わない。どちらがより大切であるかは、人それぞれだ。ただ、この場合不満なのは――。
「なんで私に押し付けるのよ」
「美坂が、一番家が近い」
「私の家の近く……? そんな人、いたかしら」
 香里は首を傾げた。美坂家はこの中学校からは少し離れた位置にある。隣の学区との、ほとんど境目も同然の場所だ。周囲に、同じ学校に通う生徒の家があった覚えはなかった。
「ん? 先生が、俺の家の次に、美坂の家が近いって言ってたぞ?」
「誰の家よ」
「水瀬」
 その名を聞いた瞬間、心拍数が上がったのが、手に取るようにわかった。
 一年生のときも、二年生のときも、同じクラスでありながら、一度も姿を見たことのない少女。出席番号が近いので、学年の初め、彼女の席はいつも真後ろだった。そしてその席は、いつも空虚が支配していた。
「会ったこと、あるの?」と、香里は問うた。
「誰に?」
「その、水瀬さんに」
「あるよ。月に二回くらい、プリント届けてるから」
 生徒に、登校拒否している人の家へプリントを届けさせるのは、ちょっと配慮が足らないのではないかと思ったが、突っ込まないでおく。
「なんていうか、明るい人だよ。ご両親は働いているらしくて、家には一人でいるんだけど、なんか、本当にこの人が登校拒否してるのか? って感じ。美坂より、よほど社交的だ」
 香里は北川を、殴り飛ばした。
「行ってあげるわ。プリントは何処? それと、水瀬さんの家の場所も教えて」
 床に沈没している北川は、かろうじて自分の机の上を指差した。そこに、プリントの束と、メモ用紙に書かれた地図があった。香里が了承した場合、すぐに渡せるようにと、あらかじめ準備していたらしい。
 教室を出ると、わき目も振らず昇降口へと急ぐ。
 水瀬名雪に会ってみたいという、ちょっとした野次馬的精神から、香里は北川の代わりに、水瀬家へと行く気になっていた。
「……雨、か」
 空を見上げて呟く。未だ低く厚い雲に閉ざされて灰色をしており、そこから降り注ぐ雨は、先ほどよりも強かった。それはまるで、すべてを浄化しつくそうとしているかのように見えた。


 傘では防ぎきれない水滴が肩口を濡らす。雨が地面を叩く音以外、何も聞こえない。すべてが流されていってしまうのではないか、そんな感覚が芽生える。
 北川直筆の地図は、濡れてしまうといけないので、鞄に仕舞ってあった。道筋は、地図を一見してだいたい頭に入っている。川に沿ってずっと歩いて、あとは角を曲がるだけだ。単純な道で、しかも美坂家からさして離れていなかった。
 道を曲がる。すぐそこが目的地だ。そう思って、前方を見据えると、そこには一人の少女が立っていた。
 一瞬の印象は、ずいぶんと大人びたものだったけれど、背格好から判断すれば、香里と大差のない年齢だろう。少女の存在は鮮烈な衝撃だった。香里は彼女を視界に捉えた瞬間、足を釘付けされたように、動けなくなっていた。
 彼女が、こちらを向く。
 目が合ってしまった。
 美しい女の子だった。
 流れるような長髪が、雨に濡れてきらきらと輝いて見える。やはり、動けない。それは釘というよりも、何かの魔力のように思えた。前に立っている彼女も動かない。二人は雨の中で見つめあった。
 雨音だけが聞こえる。
 ノイズのように、代わり映えしない雑音が、ひたすら流れ続ける。
 視界はモノクロームのように色彩を欠いていた。すべてが雨に掻き消されたかのように灰色の世界で、彼女の姿だけは、水の壁に遮られ、鮮やかに滲んでいる。濡れた肩と足元が冷え冷えとしていた。ざぁ、ざぁ。雨音はまだ聞こえる。
 視線を少しだけ動かした。彼女が立っているのは、『水瀬』と表札のついた家の前だった。まさか、もしかして。
「水瀬さん……?」
 やっと出た声は、掠れていた。
「うん、そうだよ」と、彼女は言った。「えっと、あ、その制服は」
「プリント、持ってきた」
「とりあえず、上がってよ」
 そう言って、水瀬名雪は微笑んだ。
 なんて素敵な笑顔だろう。躊躇いもなしに、香里は心の中で呟いた。


 家の中に入ると、暖かい空気が体を包み込むように心地よかった。たたんだ傘を、玄関の戸の脇にある傘立てに置いて、香里は鞄の中からプリントを取り出した。
「これ、プリント」
「あっ、ありがとう」
 受け取る彼女の表情は、やはり笑顔だった。
 拍子抜けした。北川から、とても登校拒否をするような人とは思えないと、聞いてはいたけれど、確かにそのとおりだった。とても明るくて、可愛らしい人だと思った。
「えっと……」渡されたプリントで、口元を覆い隠すようにして、名雪は言った。「名前、教えてもらえないかな……?」
「え? ああ、あたしの名前、知らないのよね」
 こちらは名雪の名を知っていたので、名乗るという行為の存在を、すっかり忘れていた。
「美坂香里。よろしくね」
「うん」
 名雪は元気一杯、といった様子で頷いて、「北川君は、どうしたの?」と問うた。
「今日は用事で来れないって言ってた。だから、かわりにあたしが来たの」
「そっか、わざわざごめんね」
「いいの、別に」
 これで用事は済んだ。これ以上ここに留まる理由も必要もない。
 香里は傘を手に取った。すると名雪が、「あ、あの」と、言い辛そうに口を開いた。
「何?」
「時間、ある?」
 香里が訝しげに首を捻ると、名雪は少し慌てた様子で、「いや、その、美坂さん、勉強得意なんだよね? だから、時間があれば、今、勉強教えてもらえないかなと思ったの」と言った。
「――別に、勉強が得意ってわけでもないわ」
「でも、学年でテストの点が一番いいって、北川君が言ってたよ」
「北川君が……? あたしのこと、話してたの?」
「うん。クラスのこと、いろいろ話してくれるんだ」
 実に北川らしかった。楽しげにクラスの様子を話す彼の姿が、目に浮かぶようだった。
「まあ、テストの点が学年一位なのは、事実だけどね」
「やっぱり。すごいよ」
「そう――なのかな。わからない。それより、勉強どうするの? 暇だし、教えてっていうんなら、別にかまわないけれど」
 香里は言いながら、傘を再び傘立てに置いた。
「ありがとう」
 嬉しさを全身で表すかのように跳ねながら、彼女はスリッパを用意してくれた。靴を脱いでそれに履き替え、「こっちだよ」と言う彼女についていった。両親はどちらも働いているらしいという北川の言葉を思い出して、リビングを横目で覗くと、やはり人の気配はなかった。
「ここが私の部屋」
 二階に上がり、正面の扉を開けると同時に、名雪は言った。
 質素な部屋だった。殺風景とはまた別の、シンプルな部屋。好感が持てる。
 香里は鞄を隅に置いて、何気なく机の上を見た。
 驚いた。驚愕、といってもいい。びっしりと細かい字で埋め尽くされたノートが、そこにはあった。隣に置いてある参考書には、いたるところにマーカーが引いてある。
「勉強熱心ね」
「そんなでもないよ。――お茶、淹れる?」
「遠慮しておくわ。勉強しに来たんだし」
「そうだね」
 名雪は勉強道具一式を、部屋の中央のテーブルに置いた。香里は、その隣に座る。
「さて、水瀬さん。何がわからないの?」
「あ、わたしのことは、名雪でいいよー」
 その言葉を聞いたとき、不思議と不快感はなかった。
 本来なら、相手をファーストネームで呼ぶことどころか、そう呼んでくれという発言にすら、抵抗があるはずだった。でもその時は、香里も、自然にこう返すことができていた。
「――じゃあ、あたしは香里でいいわ」
 名雪は、その日最高の笑顔で、頷いた。





2.

「昨日、どうだった?」
 北川は、香里の姿を発見するや否や、そう話しかけてきた。
「どう、って?」
「水瀬のことだよ。行ってくれたんだろ? 昨日」
「ああ。そうね、行ってきた」
 昨日と同じように、今日もまた雨だった。幾分雨量は減っているが、それでも強い雨であることに変わりはない。
「いい子だったわよ」と、香里は言った。「北川君より、勉強できるし」
「そうなんだよな」
 北川は腕を組んで、悩ましげに頷いた。朝の教室は、そろそろ喧騒に包まれつつある。
「ちょっと前、勉強教えてくれって頼まれたんだけど、水瀬のほうが頭いいんだ。俺が教えることなんて、何もなかった。あれ、全部自分で勉強してるのかな?」
「そうじゃない? ご両親は忙しいみたいだし、独学の可能性が高いんじゃないかしら」
 だとしたら、すごいことだと思った。
 彼女の学力は、相当なレベルにあると見ていいだろう。昨日、わからないと言って香里に幾つかの質問をしていたが、概略を説明するだけで、彼女はいとも簡単に理解してみせた。学校に通って、テストをしっかり受けていれば、学年で十位以内には確実に入るのではなかろうか。
 たぶん、勉強ができるできない以前に、頭のいい人なのだろう。香里はそう判断した。
「美坂も、勉強教えてくれって頼まれたのか?」
「ええ。もっとも、あたしにもそんなに教えることはなかったけどね」
「そうか……」
 北川が頷きかけたところで、チャイムが鳴った。朝のホームルームが始まる合図だ。「それじゃあ」と言って、自分の席に戻る北川の背を眺めながら、香里は昨日見た、名雪が一生懸命ノートを文字で埋めていく姿を、何ともなしに思い出していた。


 名雪は、ちょっと心理のつかめない人だった。
 何を考えているのか、外観からは想像もつかない。見た目はいつも楽しげだ。だけど、それは強がりであるのかもしれない。弱さを必死に覆い隠そうとしているだけなのかもしれなかった。
 いや――。むしろ、いつもそうなのではあるまいか? 登校拒否をするようには見えないという、その第一印象は、実は名雪が自分自身を欺瞞しているということの証明なのではないか?
 そうすると、名雪が闊達さの合間に時折見せる、物憂げな表情や、暗く儚い態度に、説明がつくような気がした。
 いずれにせよ、彼女が何を考えているのか、想像するだけで断定はできないのだけれど。だから彼女は、心理がつかめない人なのだ。
 香里は今日も名雪の家を訪れていた。別に用事があるわけでもなかった。何故自分がここにいるのか、それすらもうまく説明できない。
 たぶん、水瀬名雪という人物に惹かれているのだと思う。興味がある、ということではなくて、彼女の人間性は、何処かしら香里を魅了する部分があった。
 インターホンを押そうかどうか、迷った。家の前まで来たはいいが、用事などないのだ。奇妙な訪問に、彼女は警戒心を抱かないだろうか。人目を気にすることなど今までまったくなかったけれど、彼女にだけは嫌われたくないと、香里は思い始めていた。
「あ、香里、こんにちは」
「ええ、こんにちは」
 挨拶された。だから、挨拶し返す。極めて普通の条件反射。異常な部分は何もない。日常からの逸脱は、少しも見受けられなかった。
「ところで、香里はこんなところで何をやってるのかな?」
「うーん、名雪が……って」
 何と漫画的な展開だろう、と香里は心の中で叫んだ。隣を見ると、傘を差して雨をしのぎながら、買い物袋を左手に提げている名雪がいた。
「名雪、いるならいるって、言って頂戴」
「うん、わかった。わたしはここだよ、香里」
「遅いわよ……」
 雨音に紛れて、足音がまったく聞こえなかったとはいえ、ここまで接近されて気が付かないとは。
「香里、上がっていきなよ」
 名雪は玄関の扉を開けて、香里を手招きしていた。小さく笑って、香里は玄関の戸をくぐった。


 昨日とは違って、香里はリビングにいた。 食卓と思しき場所に座ってから既に数分。台所に消えた名雪は、まだ出てこない。せわしない様子で、香里はリビングを見渡した。
 広い家だった。
 名雪の部屋もそうだったが、家具の配置や調度など、まことにセンスがいい。
「お待たせ、香里」
 買ってきた食料品を、冷蔵庫に詰め終わったらしい名雪が、台所から姿を現す。
 ……何故か、彼女はマスクをしていた。
 さらにわからないことに、彼女はゴム手袋もしていた。
 そして、その手には、オレンジ色のゲル状の物体が封入された、大きめの瓶が握られている。
「名雪……それは、何?」
「これは危険物だからね。取り扱うときには、必ずマスクとゴム手袋を装着しなきゃいけないんだよ」
 嘘だけど。そう言って、彼女は瓶をテーブルの上に置くと、マスクと手袋をはずした。
「これは、何?」
「食べてみて」
 名雪は香里にスプーンを渡す。
 仕方がなく、香里は瓶を開けて、中身――これは間違いなくジャムだろう――をひとすくいし、口に運んだ。
「……なんとも独創的で前衛的な味ね。まるで何を表現したいのかさっぱりの、意味不明な新興芸術のようだわ」
 先ほどの名雪の態度から、これがおいしいものだとは最初から期待していなかったので、香里は思ったままを口にする。そして、エアロゾルと化して空中を漂い始めても嫌なので、早々に蓋をした。
「それね」と、名雪が言った。「お母さんのお気に入りなの」
「…………」
「何かあるたびに、勧められるんだ」
「……大変ね」
「……うん」
 妙なところで共感を覚える二人だった。


 たくさん、お喋りをした。
 話してみれば、名雪は驚くほど無知だった。無邪気、と言ってもいいかもしれない。穢れのない純真さを持っているような気がした。だけど、本当はそうではないことも、香里はまた、知っているのだ。
 名雪は、心の何処かに闇を抱えている。それは、厳然たる事実だった。そうでもなければ、名雪は今頃学校に来て、香里と一緒に、親しげに勉学に励んでいることだろう。
 名雪は香里に、学校の話を求めた。それが香里には少し意外だった。登校拒否の彼女だから、学校の話は必然的に避けるものだとばかり思っていた。けれど彼女は香里に、クラスの様子や、体育祭や文化祭といった行事の様子が、どのようなものなのかを話してほしいと言う。香里は、求められるままにすべてを話した。名雪は目を輝かせて聞き入っていた。
 そんな彼女を見て――、香里は、名雪が本当は他人を求めているんじゃないかと思った。もちろん確証はないが、何となくそんな気がしたのだ。本当は学校に行きたい、でも行けない。そんな二律背反に、彼女は悩まされているのではないか?
 帰り際、名雪は香里に、「……また来てくれる?」と、問うた。香里は躊躇いなく、「もちろん」と、答えていた。





3.

 冬も半ばが過ぎ去った。
 初めて会った日以来、香里は幾度となく名雪の家を訪れていた。用事のない日は、だいたい学校帰りに水瀬家に寄る。そんな生活が、二ヶ月ほど続いていた。
 北川も、たまに名雪の元を訪れる。香里と名雪と北川、三人でお喋りをする。そんな日もあった。
 一度だけ、香里は名雪と外で雪合戦をしたことがある。名前に『雪』の字がついているのだから、さぞかし強いのかと思いきや、彼女は踏み固められていない新雪に足をとられて、香里のいい的になっていた。
 そんな、穏やかな日々が、続いていた。


「うちに泊まっていかない?」
 いつもと同様、香里が放課後に水瀬家を訪ねると、開口一番、名雪がそんなことを言った。
「それはまた、ずいぶんと急な話ね」
 名雪の語るところによると、今日と明日、彼女の母親が、出張で家を留守にするらしい。泊まるなら今、というわけだ。
 もっとも、名雪の母親は、香里の宿泊を拒むような人物ではないらしいので、そうするとわざわざ出張にあわせて泊まる必要などないのだが、そこは雰囲気というものだろう。親を抜きに、友人だけで。これはたまらなく楽しそうだと思った。
 香里は頷いて、「泊まっていくわ」と言った。その時の名雪の反応といったら、もう、狂喜乱舞をそのまま体で表現しているように跳ね回っていた。そんなに嬉しいのだろうか。
「あ、でも……」
 香里が不安げに呟いた。名雪の動きがとまった。
「うちの親が、赦してくれるか……」
「うー、赦してくれないの?」
「わからない。とりあえず、電話して訊いてみる。――電話、借りるわね」
 香里は電話の受話器を取った。母親と少しだけ会話を交わし、「意外と簡単に許可が下りたわ」と、言った。受話器を置く。名雪の顔が、今度こそ喜びの輝きで満ちた。
「――じゃあ、今日はお世話になります」
 冗談めかして、香里がお辞儀をした。名雪もそれに応じて「ゆっくりとしていってください」と、頭を下げて言う。そして、頭を上げ、目が合ったところで、おかしくなって二人同時に笑い出した。


 香里が着る服は、名雪のもので足りた。何から何まで、サイズがほぼ一緒だったし、いざとなれば女二人だ、どうにでもなる。
 ただひとつどうにもならなそうなのは、就寝時刻だった。まだ九時だったが、名雪はもう寝ると言い出したのだ。
「明らかに早いでしょう、九時は」
「これが普通だよー」
 どうやら本気らしかった。
 よって香里は名雪に付き合わされて、食後すぐに就寝する羽目になる。
「何処で寝る?」と、名雪が訊いた。
「名雪の部屋」
「そうだよね、そうしないと、お喋りできないもんね」
 笑顔を浮かべてしつこいほど頷きつつ、名雪は自分の部屋の扉を開けた。中央で立ちどまって、部屋全体を見渡し、「ベッドはひとつしかないけど?」と、悪戯を企んでそうな表情で言う。
「じゃあ、そのベッドで寝るしかないわね」
 香里も、たぶん名雪と同じことを考えていた。
「仕方がないね」言葉とは裏腹の表情で名雪は言う。「一緒に寝よっか?」
 やはり女二人だと、どうにでもなるのだ。
 が、やはり名雪の就寝時刻は早すぎる。香里は全然眠くなかったが、ベッドに入ると間髪入れず、名雪は穏やかな寝息をたて始めていた。睡眠に至るまでの速度が、ありえないくらいに速かった。
 名雪が寝てしまって、この世界に、動くものはなくなった。少なくとも、香里にはそう感じられた。静かだ。本当に静かで、この静寂だけは、たぶん壊してはいけない。
 横目で視線を時計へ。九時十分。眠れるわけがない。
 香里はベッドを抜け出した。そのまま一階に下りる。ただでさえ広い水瀬家のリビングの中は、暗く無人の今、寂寥感だけが詰め込まれているように感じられた。がらんとしたリビングの中空を、ぼんやりと眺める。ふと思い立って、窓のカーテンを開いた。透明な質感の月光が、微かな輝きを帯びて、まっすぐに室内へと差し込んできた。光の中を儚げに舞う雪は、きっといつか降り積もって、闇に包まれたこの世界を、優しく真っ白な光で包み込むのだろう。真っ暗な闇夜、でもそれは優しい闇だと思う。香里は手のひらを窓硝子にあてた。無機質的な冷たさが、触れた部分全体に染み渡ってくる。気持ちがいいと思った。
「寒くないの、香里」
「冷たくて気持ちいいわよ」
「そっか……」
 いつの間に階段を下りてきたのだろう、名雪がソファーに座ってこちらを見ているのがわかった。硝子の中に、その姿は香里の顔と共に映りこんでいる。
「寝てたんじゃないの?」
「そうなんだけどね……。なんだか、いつもなら起きないんだけど、今日はあんまり眠れないみたい。きっと、香里がいて、ドキドキしてるんだよ。――ねえ、香里」
「何?」
「わたし、嬉しいんだ」
「どうして?」
「お友達と、お喋りして、同じ時をすごして、あるときは同じ場所に泊まって、同じご飯を食べて。そんな、普通に学校生活を送っていたら当たり前だろうことが、わたしにはできなかったから。夢がかなったような気がする。香里、わたしにとっては、とても大切なお友達だよ」
 何故だろう。
 名雪の言葉にだけは、香里はいつもの冷淡さで接することができない。その笑顔の前では、無謬と信じてきた何もかもが、崩れ落ちてしまいそうだ。
 名雪の声は、静かな旋律のように、香里には聞こえた。ノクターンの調べ――夜という神聖を表した、それは夜想曲。薄暗い闇の中に差す、一条の光。真っ直ぐに、この心の中に入り込んでくる。降る雪のように、包み込んでいく。
「……不思議な人ね、名雪って」
「え? そうかな?」
「ええ。あたし、小さい頃から感情が欠落しているかのようだった。何かに心を揺り動かされることも少なかったし、他人に共感することもほとんどなかった。いつも、一歩引いた視点で物事を捉えていた。
 だけど、そんなあたしの心の中に、あなたは容易に入り込んできた。あなたほどあたしの中に深く入り込んできた他人は、他にいない。あなたがどう思っているのか、原理的にあたしには判断できないけど、少なくともあたしにとっては、あなたはあたしの、親友よ」
「わたしも、香里のこと、親友だって思ってるよ」
「そう……」
「うん」
 頷いて、名雪は微笑むのだった。酷く、儚い笑みだった。


「わたし、『登校拒否』なのかな」
 不意に名雪が言った。
 冷え冷えとした茫々たる暗黒の中に、その言葉は鮮烈に解き放たれ、玲瓏な何かが空間を一筋、突き抜けるように過ぎ去った気がした。それは、その言葉が持つ印象に他ならなかった。この絶対的な闇にすらも映えてしまうほど、名雪の口が綾なす言葉は、諦めにも似た深い悲哀で満ちていた。もう何もかもが終わってしまって、どうしようもなくなってから、後悔と懺悔を込めて放った言葉。そんな印象だった。
「どういうこと?」と、反問する以外、香里にすべはない。肯定も否定も、しかねた。
「わたしは、学校に行かない」名雪は香里から視線を背けることなく言う。「だから、社会的に見れば、『登校拒否』以外の何物でもないと思う。だけど、さ」
 名雪は一瞬、言葉のつながりを断った。瞬間的な迷いがあったのかもしれない。何故なら、今名雪が香里に話そうとしていることは、今までになく彼女の心の奥底を覗き込まなくては、扱えない問題だったから。
 名雪は言った。
「わたしは、学校に行きたくないわけじゃないんだよ?」
 それはわかる。学校の話を聞いている名雪はとても楽しげだった。香里は頷いた。名雪はそれに微笑みで返して、続けた。
「『登校拒否』って言葉は、なんだか主体的に登校することを拒否しているようなイメージがあるけれど――もちろん、そういう場合だってある――、でもわたしは違うんだ。わたしは、学校が好き。ものすごく好き。だから、辛いことがあっても耐えてきた。言葉では言い表せないくらい、辛い日々だった。でも耐えてきた。耐えて、耐えて、だけどわたしはもう限界だった。中学校に上がるのと同時に、わたしは学校に行かなくなった」
 それは、いつも明るい名雪の口から発せられたとは思えないほど、悲痛な感覚で満ちた言葉だった。まるで、耳を覆ってしまいたくなるほどに。
 でも、聞かなくてはならないのだ。彼女の友人として。親友として。
「わたしは学校に、いつも肯定的な感情を抱いている。学校が好き。行きたい、でも体が動かない。それでもわたしは『登校拒否』なのかな? 『不登校』なの? 『学校嫌い』? 『思春期挫折症候群』?
 そんな、何もわかっていないような大人が勝手に名付けた呼び方で、わたしはわたしの『登校拒否』を呼んでほしくない。わたしの『登校拒否』は……」
 そこで、名雪は黙った。
 彼女はその後に述べるべき言葉を持っていないのだとわかった。彼女の現状を正しく表現する言葉は、ないのだから。


「ねえ」と、香里が言った。名雪に向き直る。
 香里が今から言おうとしていることは、考えようによっては暴挙と言えた。無理解な他人の無責任な行動とも言えたし、単なるお節介とも言える。
 だけど、香里は名雪に学校に行ってほしいと思った。名雪の日ごろの笑顔を思い出して、彼女の今の言葉を聞いて、香里は、一つの夢を胸の内に抱く。
 それは――。
「あたし、名雪と一緒に学校に行ってみたい」


 長い長い沈黙があった。けれどそれは嫌な沈黙ではなかった。暖かい何かが、心の中にゆっくりと染み渡っていく……そんな沈黙だった。
 やがて名雪は、少しだけ恥ずかしげに、小さく、だが確実に頷いた。
「わたしも、香里と一緒に、行ってみたい、かな」
 ――思い立ったら、二人の行動は早かった。
 いろいろ準備した。まず、制服。名雪は香里に急かされて、部屋で制服を着る羽目になった。「少しだけ恥ずかしい……」と、俯いて呟く名雪。「可愛いわよ」と、それを増長するような言葉を投げかける香里。
 持ち物もすべてそろえた。今まで一度も中学校に行ったことがないとは思えないほどに使い込まれた、教科書、ノート、筆箱を、対照的に真新しい鞄に入れる。
 先生に電話をすることも、忘れなかった。名雪は学校の生徒であり、登校することは何ら特別なことではないのだけれど。それでも、学校側には、一応報告しておくべきだろう。名雪が自分で電話をした。先生には、何度も会ったことがあるという。割と親しげに話していた。
 親には、帰ってきてから話す、とのこと。名雪の言葉によれば、駄目と言われる可能性は、万に一つもなさそうだった。
 準備を終え、再び床に就く頃には、時計はもう十一時半を指し示していた。香里にとってはそうでもないが、名雪にとっては深夜に属する時間帯らしい。さっさと眠りについてしまった名雪の、幸せそうな寝顔を横目で見つつ、香里は、明日に思いを馳せていた。


 翌朝。
 自然に目が覚める。時計を見た。七時。ちょうどいい時間だ。
 隣に目をやると名雪が寝ていた。もう少し寝ていても大丈夫だろう。彼女が自然に目覚めるのを待とう。香里はベッドを抜け出して、一階へと下りた。
 朝の冷たく張り詰めた空気が、まだぼんやりとしていた頭を引き締める。カーテンを引くと、眩しい朝日が、露の結露した硝子から零れ落ちてきた。いい天気だ。昨晩降り積もった雪が、薄く光を反射して、朝をより明るく引き立てる。
 ソファーに座った。昨夜、名雪が座っていた辺りだ。特に何をするのでもなく、ただ天井を見上げる。
 ……七時半になった。そろそろ起きないと、学校に間に合わないのではないだろうか。しかし名雪は一向に起きてこなかった。その気配すら見せない。
 二階に上がり、様子を見た。起きていないのであれば、叩き起こさなくてはならないだろう。というか、そうしなくてはならないだろうという、確信にも似た思いが、香里の胸中にはあった。
 部屋に入ると、案の定、名雪はまだ寝ていた。
 とても幸せそうな寝顔だった。
 巨大なカエルのぬいぐるみ――確か、けろぴーという名だった気がする――を抱きしめて、遮光カーテンを突き抜けて降り注ぐ朝日の中、名雪は熟睡していた。あまりに気持ちよさそうに寝ているので、香里は、彼女を起こすという行為が、とんでもない悪行なのではないかと一瞬思ってしまったが、そんなはずはなかった。思いなおして、耳元で「名雪!」と叫ぶ。
 起きない。
 めげずに、何度もその名を呼んだ。けろぴーを取り上げて、体を揺すった。でも起きなかった。起きる気配すらない。まるで今が真夜中であるかのような眠りようだった。
 十分間悪戦苦闘して、香里はやっと名雪を覚醒へと導くことに成功した。オレンジ色のジャムで脅し、朝ごはんを食べさせ、急いで慣れない制服を着させて、水瀬家を出たときには、もう八時十五分をとうの昔に過ぎていた。
「これじゃあ、遅刻ぎりぎりよ」
「わたし、足には自信あるんだ」
「雪合戦弱かったのに?」
「それとこれとは別だよ」
 確かに、いざ走り出すと、名雪は速かった。が、それでも遅刻ぎりぎりだ。担任と大差ない時間に教室に突入した二人は、教室中の注目を浴びることになった。
 名雪は狼狽しながらも、自分の席につく。香里とは席が離れていたが、北川が右隣なので安心だった。香里が昨夜密かに電話して、今日のことは既に北川に伝えてあった。北川は、香里のほうを一瞬だけ見て、親指を立ててみせた。
 担任が教室に入ってくる。今日も一日が始まる――昨日と、少しだけ違う一日が。





4.

 半ば暗くなった廊下に、名雪は独りで佇んでいた。窓から見える空は、もう落日を迎えようとして、空の低い部分だけが微かにオレンジ色に染まっている。その空を無表情に眺める名雪の横顔は、酷く儚くて、美しい。
「どうしたの、名雪」
 声をかけると、何かの呪縛から解き放たれたかのように、名雪は香里のほうを向いた。その瞳は少しだけ潤んでいて。ひょっとして、泣いていたのだろうか?
「香里、か」
 が、その声はいつもの名雪。少しぼんやりとしていて、奥のほうに少しだけ憂いを帯びたような声。不自然なところは、何もない。気のせいだったのか、そうではないのか。判断はつかない。
「どうかしたの?」
「なんでもない」と、名雪は言った。が、すぐに首を横に振って、「いや、何でもないってことは、ないか」と、自嘲気味に呟く。
「何かあったの?」
「何もないよ。ただ、いつもと同じだっただけ」
 名雪が初めて登校した今日は、もう終わりに近付いていた。旧友たちの好奇の視線に晒されながら、名雪は学校で過ごす一日を終えた。今はもう、放課後。何もかもが遠い世界のような、現実感の抜け落ちた廊下の風景が、酷く寂しげだった。
「いつもと同じ――って?」
「やっぱり、駄目だった」
 言葉を紡ぐ名雪は、悲哀の表情を滲ませていた。元々潤んでいた瞳から、とうとう涙が溢れ出した。
「ごめん、香里。わたし、やっぱり香里と一緒に登校、できそうもない」
「……そう」
 頑張って、明日も一緒に行こう――そんな無責任な言葉は投げかけられなかった。これは、名雪の決断だ。香里は黙って受け入れる他なかった。
「ねえ香里」
「何?」
「ちょっと、独り言言いたいんだ。そこで、聞いててくれないかな」
「ええ。いいわよ」
「ちょっと、長いかも」
「かまわない」
「あんまり面白くない」
「気にしないわ」
「……ありがとう」
 名雪は、涙を流す中で、少しだけ笑ったように見えた。


「わたしが学校に行けなくなった理由は、いじめだった。そう言うと、とっても簡単に思えるけど、わたしにとっては大変だったんだ。わたし、お父さん、いないの。知ってた?」
 名雪は香里に問うた。香里は、首を横に振った。よく考えれば、昨日から今日にかけて名雪の家に泊まった理由は、母親が出張でいないから、だった。その条件付けには、最初から父親という要素が抜け落ちている。
「わたしね、ずっとお母さんと二人で生活してきた。家はお父さんがまだいる頃に買ったもので、お父さんが交通事故で死んでから、お母さんはローンとか、一人娘のわたしのこととか、とっても大変だったみたい。いや、今もたぶん大変だと思う。いじめは、そんなわたしの家庭環境をあげつらったものだった。主に、片親しかいないって部分」
 心の何処かで、名雪の今の言葉を予見していたのかもしれない。香里は驚かなかった。ただ、哀しいと思った。
「もっとも――」と、名雪は言う。「いじめの目的なんて、あったのは最初の頃だけ。後は、何が理由でいじめていたかなんて、いじめているほうもいじめられているほうも、わからなくなっていた。だからこそ、いじめは陰湿になって、わたしは、学校に行けなくなった」
「まさか、今日も同じように?」
「そんなことないよ」
 香里の言葉を、名雪は即座に否定する。首を必死に横に振って。涙が、夕日に照らされて輝きながら、零れ落ちた。無人の廊下に、二人の声は妙に大きく響いた。
「皆、とっても優しくしてくれた。わたしが通っていた小学校にいた人たちは、ほとんどこの中学校に上がっている。だから、わたしをいじめていた人たちも、いた。クラスにもいた。皆親切にしてくれたんだ。本当に、親切で、まるでわたしをいじめていたことなんて、忘れてしまったかのように」
 語尾は掠れていた。言い終わるや否や、彼女は嗚咽を漏らして泣き始める。そんな名雪に何もしてやれない自分のことが、香里は、どうしようもなく嫌だった。他人である以上、名雪のことを真に理解することはできないのだけれど。それでも香里は、名雪のことをただ黙って見ているしかない自分が、嫌いになりそうだった。
「皆優しいんだよ? いじめなんてないって、わかるんだよ? ――でも、思い出しちゃうんだ。理由もなく殴られて、蹴られて、髪の毛引っ張られていた頃のことを。こんなゲームがあった。男の子が何人かで、わたしを囲むんだ。それで順番に、わたしのことを、殴ったり蹴ったりするんだよ。そして、わたしを泣かした人が、負け」
 名雪はまるで、何かに取り憑かれたようだった。次々と語られる名雪の過去を、香里は、ただ黙って聞いていた。
 彼女のことを抱きしめて、辛かったね、でももう大丈夫だよ、そんな気休めの言葉を吐いたところで、どうにもならないだろう。これは、名雪自身が乗り越えるべき問題であり、真の原因は、社会的な部分にある。


 窓の外で、上から下へ、舞い落ちる。――雪だ。
 それは、すべてを真っ白に染め上げて。
 あまねく埋め尽くし。
 幾多を満たしていく。
 穢れなき。まるで純化。
 それは――死か。


 雪にはいつも、死のイメージが重なると、香里は思う。
 でも、それは違うはずだ。そんなの、見かけだけのはず。
 目の前の、傷つき、怯え、でも必死に前へ進もうとしている少女の名には、確かに『雪』の文字が入っているから。
 もしも死という印象が、正しいものなのだとしても。
 それは、後ろめたい死ではない。
 連綿とつながっていく生命。未来に向かうために為さなくてはならない死。先に進むために、今だけ殺さなくてはならない、過去の自分。


 さらさらと。ふわふわと。雪は、降って。
 心の中で、香里は名雪に、呼びかける。
 ねえ、あなたって、ひょっとしたらとても強い人なのかもしれない――。


 吐露される彼女の言葉をすべて聞き、二人が学校を出たのは、辺りがすっかり暗くなった頃だった。




epilogue

 雨は弱くなっている。
 名雪の家にプリントを届け終え、後は北川の家に行くだけだ。目指すべき家は割と近い。
 インターホンを押すと、名雪のときと同様、本人が出てきた。
「元気? ――なら、学校に来てるか」
「そのとおりだ。思わず一日中ゲームをしているほど元気じゃなかった」
 北川は自信満々に答える。
 苦笑しつつ、香里はプリントを渡した。その中から、北川が取り出して即座に返したものがあった。見ると、『三学期学力考査結果』とある。三学期、中間試験がないのをいいことに催される、我が高校独自の試験の結果だ。
「これ、くれるの?」
「捨てておいてくれ」
「北川君のお母さんに渡すわ」
「それじゃあ渡した意味がない。ていうか、それだけは勘弁」
「じゃあ、ちゃんと受け取りなさい」
 プリントをつき返す。渋々受け取った北川に、「ねえ、中学校のとき、一回だけ名雪が登校してきたの、覚えてる?」と、問うた。
「覚えてるぞ。それがどうかしたか?」
「いえ、なんでもないんだけど……。名雪は、結局自分の過去を克服できたのかなって思って。中学校のときは、できなかった。なら、普通に学校に通えるようになった今は、どうなんだろう」
「美坂は、どう思うんだ?」
「うーん……。できてないんじゃないかな。でも、それを隠して前に進むだけの強さは、身についた」
「俺もそう思うよ。学校に行けなくなるほどの辛い体験だったんだ。そう簡単に克服できるわけじゃない。でも、高校に合格したって、水瀬が嬉しそうに言いに来たとき、その過去を抱えて前進しようとしているなってことは、わかった。――で、なんでこんな話をするんだ?」
 北川の問いに、香里は笑って答えた。「今日の天気が、ね」
「はあ?」
「後は自分で考えて。じゃあ、お大事に」
 首を傾げている北川をおいて、香里は帰路についた。


 何気なく空を見上げる。
 本来そこにあるはずの青は、一面の雲に覆われていた。
 そんな灰色の空を見ながら、香里は、明日はまた雪だろうと思った。



――了


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