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 鈴が風邪を引いた。土曜日の朝のことになる。頭痛と眩暈がする、と起き抜けに訴えたので体温を測ったところ、三十七度九分あった。
「まったく、役に立たん風邪だ」と鈴は布団に引き返して文句を言った。「平日に引けば学校休めたのに」
「単位取れなくて困るのは鈴だからね」
「あー頭痛い」
「風邪引いたときの鈴の頭痛は酷いよね……」
「喋るだけで痛い」
 まあ安静にしていれば月曜日には熱も下がるだろう、と理樹は思った。
 食事当番は鈴だが、布団に包まって頭痛い頭痛いと唸っていては台所に立てるわけもない。理樹が代わりに朝食を作ることになった。粥にでもしようかと考えたが、鈴はその類の柔らかい食べ物が苦手なことを思い出し、普通の朝食を拵えるようと決める。そうして二十分後テーブルに並んだ洋食を、鈴は苦しげな顔で半分ほど食べた。ご馳走様を言い、ふらふらと椅子から立ってふらふらと壁際の布団に戻っていく鈴はなかなか重症に見え、理樹はその背に「薬飲む?」と問いかけた。
「飲まない」
 ぶっきら棒に言い返して、鈴は掛け布団の中にもぐり込んだ。昔から薬の苦手な鈴だった。大きさに関係なく錠剤が飲み込めないのだ。
「じゃあ寝ちゃいなよ。そっちのほうが楽だよ」
 布団の中で鈴は小さく頷いた。
 鈴が残したトースト半分と目玉焼き二つを含めて、二人前に近い量の食事を終えると、理樹はノートパソコンを広げた。演習の発表が近いので原稿をしたためねばならなかった。締め切りは来週末。まだ完成とは程遠い。構想も何もあったものではないが、無理矢理キーボードを叩いて書き始める。
「理樹」と鈴が布団から顔を出して言ったのは十五分ほど後のことだった。
「どうしたの?」
「頭痛くて眠れない」
 起き立てでもあるし無理もないと思った。
「理樹は何をしているんだ?」
「演習の発表の準備。ヴォルテールの『カンディード』について」
「ふーん」と微かに返事のようなものが返ってきたが、声が響いて頭痛が酷くなってきたのか、鈴はまた黙り込んだ。見ると、膝を立てて、瞳を一心に天井に向けていた。蒼白と言うほどではない、しかしやはり何処かほの白い横顔だった。理樹は「Cela est bien dit, mais il faut cultiver notre jardin.」と、『カンディード』の最後の一文を拙い発音で呟いてみた。聞こえなかったらしく、鈴は何も反応しなかった。
「あー」と鈴が唸るように言った。「本当に頭痛いぞ」
「やっぱり頭痛薬飲んだほうがいいんじゃない? それとも病院行く?」
「寝てりゃ治る」
 そんな無茶な。しかしこうなると鈴は驚くほど頑ななので、理樹はそれ以上口を差し挟まずに画面に視線を戻した。窓の向こう側で束のようになって降っている夏の陽射しの、時折眩しく硝子をすり抜けるのだけが、部屋の中に見られる唯一の動きだった。かたかたとキーを叩く音が響く。ひと段落ついたところで、変わらず頭痛に唸っている鈴に、理樹は「薬局行って、粉の頭痛薬買ってきてあげるよ」と言った。鈴は無言で頷いた。
「あ、頭痛薬じゃなくて風邪薬のほうがいいのかな?」
「あたしじゃなくて薬局のひとに聞けー」
「そうだね。そうする。――後、暇でしょ。DVDかなんか借りてくるよ」
「『イントレランス』」
「鈴って見かけによらず映画の趣味が変だよね」
「うっさいぼけー……」
 突っ込みにも元気がない。
 鈴を家に残して外に出ると、夏の陽光が暖かだった。陽に曝されるようにしてアスファルトの上を歩いていく。しばらくすると汗が噴き出してくる。
 風邪薬と、鈴所望のDVDを携えて理樹が帰ってきたのは、三十分後のことだ。
「ただいま」と言ってもなんの反応もなくて、おかしいな、と思って中に入ると、鈴は体を猫みたいに丸め、小さく寝息を立てて眠っていた。風邪薬とDVDは当面用なしになったらしい。それらをテーブルの上に置き、足音を立てないようにして枕元に近付いた。さっきまで頭痛に苦しんでいたのが嘘のような寝顔だった。小さく開いた窓からは意外に涼しい風が吹き込んでいる。頬に触ってみようかと一瞬思ったが、起こしてしまってもまずいのでやめた。枕元を離れ、ノートパソコンに向かうと、原稿の続きを書き始める。鈴が目覚めるのを待ちながら。少しでもいいから頭痛が取れて、快い寝覚めを迎えられるといいと願いながら。
 なんだかとても、静かな気分だった。


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