大学の構内はひとでごった返している。建物から出たところで、鈴は理樹の耳元に口を寄せて、「どうしてこんなにひとがいるんだ」と訊いた。
「この時期は仕方ないと思うよ」と理樹は答えた。
四月だった。まず、理樹や鈴を含む新入生がいる。それを狙って、サークルの勧誘が列を成す。桜の下や芝生に陣取って花見をしているひとたちも多い。花見と言えば聞こえはいいが、要はただの酒盛りだ。それがそこ彼処で騒いでいる。
酒盛り中の人びとを釈然としない様子で眺めている鈴を尻目に、理樹は「さて、次で最後か……」と呟いて日程表を広げた。
「図書館の隣の教室で、図書館の説明会だ」
そう言った瞬間、鈴は脅かされたような表情で理樹のことを見、後ずさった。しかし理樹は一足先に鈴の服の裾を掴んでおり、後退を阻まれた鈴は「うう……」とうなだれた。
「逃げても駄目」
「逃げるわけじゃない。その……サボるんだ」
「ああそう」
理樹はぞんざいに頷いた。裾は離さなかった。
講義が始まる前に参加しなければならない説明会の類は意想外に多く、ここ二日間、二人は足を棒にして構内を歩き回っていた。もう疲れたのだろう、実に嫌そうな顔をしている鈴は、理樹の手から逃れるのを諦めた後、自由参加、という文字を表の上に目敏く見付けて、「ほら、行かなくてもいい。帰ろう」と言った。
「でも、なるべく参加するようにって書いてあるよ」
「うー」
「説明聞いておいたほうが、図書館使うとき便利でしょ?」
「うー……」
ごねる鈴の背を押して、先程まで学部の説明会のあった五号館の前を後にした。広場に出ると、案の定、新入生たちを取り囲むようにして陣形を組んだサークル勧誘の猛攻に曝された。次々と差し出される腕とチラシの波をかいくぐり、声をかけてくる見知らぬひとを振り切った。すぐ隣で発せられているはずの、りきー、という情けない声すら霞んで聞こえるほどの騒々しさだった。すぐ隣で発せられていたのではないと気付いたのは、人ごみを何とか抜け出して、図書館の前にたどり着いたときのことだ。
「あれ?」と理樹は思わず呟いた。鈴がいなかった。
どうやら、人ごみの中ではぐれたらしい。
「鈴ー!」
大声で呼んでみても反応はなかった。通りかかった何人かが理樹を一瞥して去っていった。
周囲は酷く静かに感じられた。図書館が建っているのが、喧騒から少し外れた構内の端だからだ。入り口は幅の広い外階段を登った先の二階にある。階段を登り、上から見渡してみる。だが相変わらず鈴は見当たらない。
不自然さを、感じた。たぶん、鈴が知らぬ間に自分の傍からいなくるのが、本当に久々だったからだ。
たとえ同じ程度の学力だからとはいえ、揃って東京に出てきてわざわざ同じ大学に入った理由は、なんだったか――。
「りんー……」
再び名前を呼んでみたが、その声は自分でもはっきりわかるほど小さかった。
鈴を探さなければならない。図書館の説明会に出るのを諦めて、理樹は雑踏の中に再度踏み込んだ。
流れに逆らっているためか、人ごみは先程よりも酷かった。肩をぶつけられ、足を踏まれた。会話が、背後や前方やそれ以外の方向から、無数に聞こえてきた。遠くで上級生が友人たちと酒を飲んで騒いでいる。どのサークルを見に行こうか相談する声が響く。学食の前を通りかかれば、中には遅い昼食を一緒に取る一団がいる。賑やかな声と息遣いとが、波のように理樹へと押し寄せる。みんな楽しげだ、と気付いた。みんな驚くほど楽しそうで、幸せそうで、それは今を満喫していたり、これからの大学生活に希望を馳せていたりするからなのだろう。友人や恋人や、或いはまだ会ったばかりだけれどもいずれはそうなるかもしれないひとたちと、同じときを過ごしているからなのだろう。
理樹は立ちどまった。泣きそうになっている自分を感じた。
今がこんなに楽しいものなのだと知っている。しかしそれが一瞬で崩れ去るものであることを知っている。大切なひとと一緒に、幸せに生きていけると知っている。その幸せが壊れ、大切なひとも前触れなくいなくなることを知っている。
「どうしろっていうんだ」
知らず知らずのうちに理樹は呟いていた。なんのせいかわからぬ涙がぽたぽたと流れた。後ろから肩を何度もぶつけられた。俯き、流れに沿って歩き出した。もう帰るひとが多いのか、流れは正門へと向かっていた。アーチをくぐって、学校の敷地から出たとき、門柱に寄りかかっていた人影に、「理樹」と呼びとめられた。
「どうしたんだ? なんで泣いてるんだ?」
鈴は理樹の顔を覗き込み、慌てたような口調で言った。
「どこか痛いのか? それとも迷子になったからか?」
「なんでもない……」と目尻を拭って理樹は言った。「それに、迷子は鈴のほうだよ」
「うん、それはまあ、そうだ」と鈴は頷いた。「でも、電話しても出なかったのは理樹だ」
携帯電話。忘れていた。
その携帯電話を取り出して、「ああ、もう説明会始まってる。今からは出られないから帰ろう」などと言っている鈴を見て理樹は、不意に、人ごみではぐれたのは説明会に出たくない鈴がわざとやったことなのではないか、と想像した。本当かどうかは知らないが、そう考えると、鈴にまんまと出し抜かれたわけで、なんだか可笑しい。
「泣いてたかと思えばにやにやして、本当にどうしたんだ理樹は」
「なんでもないなんでもない」と涙の跡を残したまま理樹は、不思議そうにしている鈴に向かって、可笑しげに言った。