prologue
気配を察知してから既に十数秒。敵は確実に接近してきている。接敵まで十秒以内といったところだろう。
空気が張り詰める。冬の校舎はひたすら冷たい感覚で満ちていた。
舞は動いた。後背に、もうひとつ気配を察知したからだ。つまり、一体が前方に、もう一体が後方にいる。このままじっとしていては、挟撃を受けかねない。張った左足の発条に蓄えられていたエネルギーを一気に解き放って、舞は前方の魔物へ、跳躍するように突撃した。
闇に白刃が閃く。
低く懐へ入り込み、上段から振り下ろす。轟音と形容してもいいほどの剣戟が響いた。
鈍い感触が伝わった。斬撃は確実に当たった。だがそれは致命傷ではない。手負いとなった魔物はこちらを牽制しつつ、次第に後退している。
隙のない構えで、舞は魔物を追い詰める。一気に上段に振りかぶり、とどめの一撃を放つ――と思いきや、その挙動に動じた魔物が見せた一瞬の隙に、舞は下半身を軽やかに捻って、背後へと転進した。背に迫っていたもう一体の魔物に斬りかかる。完全に不意を突いた形となった。先ほどよりも、確実な手ごたえ。
が。
舞は、苦し紛れに放たれた魔物の反撃を紙一重でかわすと、交戦を中止してそのまま戦闘区域を離脱した。魔物二体は、手負いのせいか、追ってこない。
新たに三体の魔物を感知していた。このまま戦うとすれば、合計五体。多い。あまりにも多すぎる。一体、この学校には今、何体の魔物がいるのだろう?
右腕に激痛が走る。避けきれず、先ほどの攻撃が右上腕に当たっていた。服が切れ、鮮血が流出しているのがわかる。生暖かい血が腕を伝って、リノリウムに点々と赤い斑点を形作る。
舞は心の中で舌打ちした。新手の三体が、自分がいる方向に向かっている。廊下を疾走しながらそれを知覚する。残念だが、これは学校を脱出するほかないだろう。
舞は手近な窓を開け放ち、小動物のような身軽さで、外に飛び出した。積雪を撒き散らして走る。
空には月が浮かんでいる。
朧で。
虚ろで。
空虚で。
そんな月だった。
“魔笛”
1.
そっと玄関の戸を閉じて、夜の街に歩み出る。雪が降っていた。街灯に照らされて、それは舞い散る聖なる白羽にも見えた。
静かだった。雪の降り積もる音が聞こえてきそうなくらい。すべてが静寂に包まれている。
相沢祐一は軽く身震いすると、商店街へと歩みを進めた。
倉田佐祐理から電話があったのはつい先ほどだった。秋子も名雪も既に就寝した時間で、祐一は夜食に得意の焼きそばを作っていた。その時、リビングの電話が鳴ったのだった。
受話器の向こうには佐祐理がいた。その声には不安が滲んでいた。聞いているこちらが恐怖を覚えてしまうくらい、それは暗く沈んだ声だった。その声で彼女は、「今から会ってくれませんか」と言ったのだ。
普段なら、時間も遅いし断っただろう。だが深夜であることは佐祐理も承知のはずだ。それをわかってかけてきているということは、よほどのことがあったに違いない。そしてそれ以上に、戦慄をかきたてられるようなその声に、祐一も不安を感じていた。祐一は佐祐理の家にすぐ向かう旨を伝えて、水瀬家を出た。
佐祐理は地元の国立大学に通う大学生だ。去年、祐一が今通っている高校を卒業し、親友の舞と同じ大学に、晴れて進学した。現在は舞と商店街近くのアパートに同居している。高校時代からの念願をかなえて、二人は幸せな生活を送っているはずだった。
なのに。
先ほどの佐祐理の様子はどうしたことだろう。彼女があんな声で喋るのは、たぶん舞に何かあったときくらいだ。
まさか、舞の身に何か? だからなりふりかまわず、こんな深夜に祐一を呼び出したりしたのだろうか?
祐一の足が自然と速くなる。雪を踏みしめる音が暗い空に響いた。夜空というスクリーンに巨大に映し出されるのは、冷酷な表情の月だった。満月だ。不吉だと思った。
この寒空の下、佐祐理は玄関先で祐一のことを待っていた。白い息が中空に霧散して、かじかんだ手を擦り合わせつつ立っている少女の表情は、やはり声の印象どおり不安に満ち溢れている。祐一が彼女の存在に気が付くのとほぼ時を同じくして、彼女も祐一の姿を視界の中に捉えた。
「佐祐理さん。なんで外に……?」
「祐一さんを待っていたんですよ」佐祐理は平然と言うと、踵を返して玄関を開ける。「どうぞ、入ってください」
その声には、必死な表情と共に、有無を言わさぬ迫力がある。祐一は無言で戸をくぐった。その際に見えた改札には、便宜上『倉田』とある。
部屋の中は綺麗に片付いていた。居間と台所の二部屋からなっている。居間の真ん中に炬燵があった。部屋の入り口で突っ立っていると、佐祐理が炬燵のスイッチを入れて、「どうぞ」と言う。祐一は座った。
「今、紅茶淹れますね」
佐祐理は台所に立っていた。その姿に祐一は、今にも崩れてしまいそうな儚さを見る。必死になって心に巣食う闇を抑えている、そんな感じだ。決壊してしまえば、どうなるかわからない。
そういえば、舞がいなかった。いつも行動を共にしている二人が、こんな遅い時間に別れて何かをするだろうか。するかもしれないが、祐一にはそのシチュエーションが思い浮かばない。やはり舞の身に何かあって、そのせいで佐祐理はあれほどショックを受けている様子なのだろうか。
事故、という二文字が頭に浮かんだ。交通事故か何かで、舞が今病院にいるとしたら?
いや、それはたぶんない。もしそうならば、直接病院に呼ばれるだろう。でも深夜だから、患者以外は病院に入れないのかもしれない。知人が事故にあったことなどないので、その辺りの詳しい事情はわからない。が、少なくとも現時点で交通事故の可能性を否定しきれないのは事実だった。
「祐一さん」
澄んだ声がした。目線を上げると、カップを祐一の目の前に置いている佐祐理がいた。佐祐理は祐一の向かい側に座って、「ごめんなさい、こんな時間に」と言った。綺麗な声だ。だが、陰鬱な声でもある。
「いや」と、祐一は言った。「佐祐理さんのことだから、何か事情があったんだよな?」
「ええ、まあ……」
佐祐理は語尾を濁す。何処か煮え切らない態度だった。彼女らしくない。
「祐一さんに相談が」
「何?」
「舞のことなんですが」
「……今出かけているっぽいけど、それと関係が?」
「わからない。舞は何も話してくれないから。でもたぶん、関係あると思います」
佐祐理にも理由を話さず、舞は深夜独りで出かけている。一体どうしたというのだろう。突如として、心の中にどす黒い疑念が生まれる。まさか。
いや、そんなことはないはずだ。何故なら、戦いは一年前に終わった。ちょうど去年のこの時期に、祐一は舞と共に戦い、そして勝利したのだ。それ以来彼女は、“魔物を討つ”という使命から解放された。
だが舞が今とっている行動は、魔物と戦っていた当時の彼女の言動に非常に酷似している。
「三日くらい前からです。舞が、深夜に何処かへ行くようになったのは」
「佐祐理さんに黙って?」
「はい。お手洗いに起きたとき、舞がいないのに気付きました。ひょっとしたら、もっと前から抜け出していたのかもしれない。とにかく、舞は夜遅くに何処かに行っているんです。そして早朝、まだ暗い時間に帰ってくる。それだけなら、舞の行動を制限する権利は佐祐理にはありませんから、いいんですけど」
不意に佐祐理が俯いた。嗚咽を漏らす。泣いている。
「昨日……舞帰ってきたとき、右腕が血まみれだったんです。肘の上辺りに大きな傷があって、そこから、たくさん血が溢れて。なのに舞、なんでもない、心配しないでいいって言うんです」
親友のことが心から心配なのだろう。彼女の涙はとめどなかった。祐一は確信していた。舞は再び戦っている。相手が何であるかはわからない。だが、舞は再び戦っているのだ――。
「今日も舞は行きました」目に大粒の涙を浮かべつつも、気丈に佐祐理が言葉を継ぐ。「こんな時間にお呼びしたのは、舞に知られずにすむからです。私に何も言わないということは、舞はこのことを誰にも知られたくないと思っているんだと思います。でも、相談せずにはいられませんでした」
「うん」
祐一は頷いた。熱い紅茶を一気に呷る。熱と甘みが口腔を支配する。
「……舞はおそらく、戦っている」
「戦う……ですか?」
飛び出した言葉があまりにも場違いだったのだろう、佐祐理が首を傾げる。祐一は続けた。
「舞の居場所には心当たりがある。佐祐理さんも、一度行ったことのある場所だよ。そして、そこで酷い怪我をした」
「……夜の学校、ですか」
「ああ」
祐一は立ち上がった。
「今から行って確かめてくる。佐祐理さんは、舞が帰ってくるのを待っててくれ。それと、明日時間、とれる?」
「明日舞が、大学の講義で出かけます。その時会いましょう」
「わかった。何時くらい?」
「二時に来てください」
「了解」
祐一は足早に玄関へと向かう。靴を履いて、素早く外へと飛び出した。後ろで佐祐理が、「気をつけて!」と言ってくれる。
佐祐理に軽く手をふると、祐一は夜の学校へと向かった。
五感を常に外部に対して開いている舞にとって、その人物の接近を事前に察知するのは容易いことだった。何より、前回の戦いでは生死を共にした仲だ。だが舞は、彼がこの校内に存在することを認めたくはなかった。これはやはり、自分の戦いだった。他人を巻き込むのはできれば避けたい。けれど彼は刻一刻と近付いて、ついに舞の前に姿を現す。
「どうして……?」
「忘れ物を取りに来たんだ」
愛用の剣を握り締め、呆然と呟く舞に、祐一は言った。白々しい嘘だったが、舞は「……そう」と、納得したのかそうでないのかよくわからない物言いで頷くのみだ。
「どうして、こんなところにいるんだ?」
「別に」
問うても、舞は無愛想に応じるだけだった。取り付く島はないらしい。だが、佐祐理のためにも、そして舞本人のためにも、ここは彼女から詳しい事情を聞きださなくてはならない。
「佐祐理さん、心配してるぞ」
舞に知られまいと、わざわざ深夜に祐一を呼び出した佐祐理には悪いが、彼女の名を出しでもしないと、目の前の剣を携えた少女は何も話しそうになかった。
佐祐理の名前を出され、舞は少しだけ眉をひそめた。だがそれも一瞬のこと。すぐに、元の何を考えてるのかわからない表情で、「佐祐理は関係ない」と言う。
「関係ないわけない。舞の親友で、今は一緒に住む家族といっていい存在だ」
「……でも、関係ない。関わったらまた――」
佐祐理が血の海と化した廊下に倒れている光景を思い出したのだろう、舞は声を震わせる。佐祐理が関われば、一年前と同じように怪我をするかもしれない。確かにそうだった。
「じゃあ、戦ってるんだな?」
「…………」
黙ったまま、舞は頷いた。
「何と戦ってるんだ?」
「魔物」
「魔物はもういない。いや、最初からいなかった」
「でも」
舞は祐一を見据える。その双眸には冷徹な感情がこもっていた。狩人の目だ。狩りという目的のためには何をも厭わない、そんな人間の目だ――。
「確かにいる。魔物はいる」舞は断言した。「一年前と同じかはわからない。だけどここには、倒すべき相手がいる」
舞の確定的な声色に、祐一は首筋が寒くなるような気がした。
そんな祐一の感情を察したのか、舞が「大丈夫、今日はいないみたい」と言った。
「そうなのか?」
「うん。この調子だと、今日はもう現れない」
言って、踵を返す。刃が月光に閃いた。美しい、素直にそう思った。
「帰るのか」
「うん」
「このこと、佐祐理さんに話すぞ」
「…………」
「それに、明日も来る。いいな?」
「……勝手にして」
冷たく言い放つと、舞は足音を響かせて歩いていった。その姿が見えなくなるまで、祐一はその場に立ち尽くしていた。
舞を見送るとすぐ、学校に備え付けられた公衆電話へ向かう。佐祐理の元へ電話をかける。舞が無事だと、一分でも早く伝えてあげたかった。
2.
昨夜と同じく、佐祐理は玄関の前で祐一を待っていた。祐一が声をかけると、「何処かに行きませんか?」と言った。祐一は数秒考えを巡らせて、とある喫茶店の名を言った。
この街に来てもう一年がすぎようとしていたが、相変わらず未知の領域というのは山ほどあって、祐一がこんなときに思いつく場所といったら、一箇所しかない。そこには、苺が大好きな従妹に頻繁に連れていかれる。
寒空の下を少し歩いて、二人は百花屋に到着した。
入り口の硝子戸を開くと、ベルの涼しげな音がする。店内は暖房が入っているのか暖かく、凍てた空気にさらされていた肌が、心地よい熱に包まれた。
最早顔馴染みとなった店員に案内されて、店の奥の席に着く。ホットコーヒーを二人して頼み、店員が去ると、「……舞は、学校にいたよ」と祐一は口を開いた。
その瞬間、無言だった佐祐理の体が、確かに震えた。しばらくの沈黙の後、「やはり、戦っていたんですか」と問う。
「ああ」
祐一は答えた。店内は賑やかだった。穏やかで、和やかで。祐一は、ふと違和感を覚えた。こんな話をするのに、ここはふさわしくはないかもしれないと思った。
「やはり、その、戦っていたんですか?」
「ああ。今日、すべてを話そうと思う」
「すべて?」
「そう、すべて。一年前と今の、舞の言動の意味を。ずっと俺と舞しか知らなかった、真実を」
「…………」
「勘違いしないでほしいのは、別に、隠していたわけではないということ――いや、隠していたことになるのか。ともかく、悪意があってのことじゃない。舞が佐祐理さんに心配をかけまいとしてのこと、だから」
「わかってます」
佐祐理の声は小さい。震えている。舞が右腕を血塗れにして帰ってきたときのことを思い出しているのかもしれなかった。彼女は怖いに違いない。彼女が知ろうとしていることは――舞の言動とは――、たぶん、彼女にとって恐怖そのものなのだ。今彼女は、戦慄という名の概念と直接対峙しているのだ。
「続けて、ください」
だが彼女ははっきりそう言った。祐一は頷いて言った。
「舞が戦っている相手は、“魔物”という存在」
「……魔物?」
予想外の言葉だったのだろう、佐祐理は、何を言っているのかわからない、という顔をした。視線で祐一を促す。
「魔物とは、舞自身だった」
「と、いうと?」
「幼い頃、俺は冬になるとこの街の親戚の家に、数日間遊びに来ていた。そこで舞と出会って、毎日のように遊んでいた。彼女はいつも独りで、俺だけが遊び相手だった。やがて俺はこの街から去った。理由は今でも思い出せないけど、ともかくその日以来、俺はこの街に来ることはなくなった。舞は独り、取り残された。八年も前の話」
ちょっと曖昧ではっきりしない部分もあるけど、と祐一は付け加えた。
「舞は俺がこの街を去るとき、電話してきて言ったんだ――魔物が来る、と。それは、俺に離れて欲しくないがために言ったでまかせだったのだけど。
ところで、舞には特殊な能力がある」
突然話が変わって、佐祐理は脅かされたように目を見開いた。「なんですか」と、小さい声で問うた。
「超能力とか、そんな言葉で呼ばれるもの。遠くの物を手を触れずに動かしたり、傷を癒したり。そんな特殊な能力が、舞にはあった。俺に電話してきたとき、彼女は無意識にこの力を行使してしまったんだ。それも、最悪の方法で。その結果、ある意味彼女の思惑どおりとなった」
「舞の力が魔物を生み出した。そういうことですか?」
「そう。舞は魔物と戦った。魔物は俺と舞が遊んだ場所を侵す、邪悪な存在。それから遊び場を守らなくてはならない。再び俺と会ったときのために。だから舞は、夜になると剣を持って校舎に忍び込んでいた。遊び場とは、今校舎が建っているその土地だった。舞は戦っていた。ずっと、独りきりで、終わらない戦いを。戦いのためにすべてを犠牲にして、それでも彼女は戦っていた。全部、俺の責任だよ。俺の何気ない言動が、舞のその後の人生を大きく左右した」
俺はひょっとしたら、そんなことないと言って欲しかったのかもしれない、と祐一は思った。けれど佐祐理は何も言わなかった。目を閉じて、じっと何かを考えていた。
沈黙。
「それで」不意に佐祐理が口を開く。「舞は、戦いに勝ったのですね?」
「勝ったよ」
祐一が返事をするのとほぼ同時に、店員がコーヒーを持って現れた。ちょうどいいタイミングだ。話が深刻になりすぎている。このまま続けるには、精神的負荷が少しばかり大きかった。コーヒーでも飲んで、少し休みたい。
佐祐理も同じ考えだったのだろうか。定かではないが、二人は同時にコーヒーを飲み始める。二人とも、ブラックだった。
先に沈黙を破ったのは佐祐理だった。カップを置き、ふうと一息ついてから、「では、舞は今何と戦っているんでしょう?」と訊いてきた。
「わからない」と、祐一は素直に答える。「だけど、昨晩舞は確かに、魔物がいる、そう言った。舞にもその正体はわからないようだけど。一年前と同じ存在かどうかも」
「じゃあ、一年前戦いに勝ったにも関わらず、舞はまた戦っているということですね? 一昨日みたく、血を流してまで」
裕一は、頷いた。
佐祐理は表情を変えずに窓の外を見遣った。祐一もつられて外を見る。雪は降っていないが、相変わらず身が凍るような寒さだ。日が高く差して、昨晩降り積もった雪にきらきらと反射していた。綺麗だ。とてつもなく綺麗。
「……祐一さんは、どうするんですか」
視線の方向を変えずに佐祐理は問うた。祐一は迷いもせずに答えた。
「一緒に戦うよ。一年前もそうだったし、それは今回も変わらない」
「……そうですか」
彼女はコーヒーを飲み干した。祐一のカップは既に空だ。店内は相変わらず歓声に満ちていた。
「出ましょう」と、佐祐理は言った。
店外はやはり凍てついた空気に満ちている。風が吹いた。冷たい風だった。温かさなど片鱗も見せない、冬の凍てついた北風。佐祐理の髪がなびいて、少しだけ祐一に触れた。
「祐一さん」不意に、佐祐理が言った。「舞を、守ってやってください」
返事を待たずに、彼女は去った。風はまだやんでいない。
3.
一年前にあったはずの木刀が、今は何処にもなかった。片付けられてしまったのだろうか。
木刀がないとなると、祐一は丸腰で、魔物が跋扈する学校へと赴かなくてはならないということになる。ただでさえ心細いのに、余計に不安になる。
だが行かないわけにはいかない。時刻は午後十一時半。昨日とほぼ同じ時間だ。舞はたぶん、もう学校にいるだろう。急がなくてはならなかった。
しょうがないから、祐一は何も持たずに水瀬家を出た。途中コンビニに寄り、食料を買い込む。足早に学校へ向かい、慣れた様子で忍び込んだ。
非常口から校舎に入り、暗い廊下を歩いていく。空気が張り詰めている。何故なら、ここは戦場だから。一年前に潰えたと思った光景が、再びここにある。
歩き始めて数秒で、恐怖が襲った。魔物は何処から攻めてくるかわからない。今この瞬間を狙われたら、どうしようもないのだ。
周囲を見渡した。すべてが暗闇だった。そこには一見、何もいない。だが油断はならない。奴らは――魔物は、視覚的には捉えることができない。目の前の暗黒に、魔物はひっそりと佇んでいるかもしれない。
――風が、舞った。
強烈な敵意を背後に感じた。振り返る。何もいない。だけど。床を見る。何かが弾け跳んだ。リノリウムの破片だろう。
いる。
魔物がそこにいる。
真剣を持っていてもなお、たぶん勝てない相手だ。現状では逃げる以外の選択肢はなかった。祐一はコンビニの袋を握り締めると、一目散に駆け出した。
自分の足音が、妙に大きく聞こえた。月光の差し込む廊下。影が奇妙なまでに大きい。パリン、と硝子の割れる音がした。蛍光灯が散ったのだ。闇がだんだんと学校を侵食していく。魔物も迫ってくる。
気が付けば、目の前には壁が迫っていた。廊下は行きどまりだった。
後背の気配はだんだんと近付いてくる。相手のほうが足が速い。
愕然としている暇などなかった。どうする? この学校には一年間いるのだ、校舎の構造はすべて頭に入っている。あそこは……行き止まりではない。死角に階段がある。
壁にぶつかる寸前で、方向転換した。階段を駆け上がる。魔物はもう、すぐそこまで迫っていた。
風圧が体を襲った。魔物が腕を振り上げている光景が、頭の中で想像できた。
祐一はとっさに体を捻って、その攻撃を回避した。祐一が一瞬前まで存在した空間を、圧倒的な攻撃力を誇る魔物の手が切り裂き、階段が数段一気に砕け散る。
祐一は階段を転げ落ちた。魔物はまだ階段の途中にいる。急いで起き上がると、散乱してしまった食料を拾う余裕もなく、祐一は再び走り出す。
息が切れている。ぴしっ、という破裂音のようなものが、すぐ後ろからした。もう追いつかれたらしい。今度こそ終わりか。
――が、魔物の気配は唐突に消え失せた。
何が起きた? 祐一は振り返る。魔物は消えていなかった。見えないので詳しくはわからないが、たぶん魔物はまだそこにいる。気配が消えたと感じたのは、祐一に向けられていた敵意が、今は別の存在に向けられているからだった。
川澄舞。
きらめく白刃を握り締めた少女が、魔物と対峙していた。
……低めの正眼に構えた舞が、半歩前進する。それだけで、すべての均衡が崩れてしまいそうな気さえした。
魔物はまだ動かないらしい。舞の鋭い目は、廊下の一点を見据えている。そこに魔物がいるのだろう。いっそう構えを低くした舞が、また魔物を追い詰めるように前進した。リノリウムの上に砂埃が舞う。魔物が移動したのだ。舞が微動だにしないのを見ると、魔物は後退しているらしい。
空気が摂動した。
刹那、舞が動く。神速の突きを前方に見舞ったあと、縦に空間を一刀両断した。彼女の動きはそれにとどまらず、体を反転させるとその勢いを借りて、斬撃へと移る。
舞の表情が不意に歪んだ。祐一は攻撃を外したのだと悟った。次の瞬間、強烈な一撃を食らって、舞は後ろに吹っ飛ばされた。
駆け寄ろうとする。だが、舞が飛ばされた方向からして、二人の間に魔物はいる。うかつに動けなかった。舞はすぐに起き上がった。唇から血が流れている。だが戦意はまったく失っていない様子だ。八双の構えから、跳躍するようにして斬りかかった。
場は、静寂と化した。
静かだった。戦場なのに。舞が着地してから、妙に静かな時間が流れる。だが、それも数秒のこと。舞は流れるように次の動作に移っている。斬る――空振り。
「逃げられた」と、舞は言った。
おそらく、先ほどの攻撃で相手に致命傷を与えたのだろう。そして、とどめをさそうとしたが、逃げられた。
「……やっぱり来た、祐一」
「ああ」
呆れたように言う舞に、祐一は堂々と答えた。
舞は無言で剣を鞘に収めた。よく見れば、腰にはもう一本剣――いや、刀か――が差してある。舞は二刀流ではない。なのに、何故二本持っている?
「これ」
その刀を、舞は祐一に差し出した。
一年前と同じだった。舞を見る。表情は相変わらず変わっていない。でも自分を受け入れてくれた様子だ、と祐一は思った。
「前と同じようにここに来るんだったら、持っていないと危険だから」
持っていても危険だが。
頷いて刀を受け取ると、祐一は鞘から白刃を抜き放った。月の光に反射して、銀色に輝く刃が妖しくも綺麗だった。収めると言った。
「敵の正体はわかったのか?」
「わからない。一年前よりも知覚しやすくなっている」
そういえば、祐一にも魔物の気配程度は感じることができた。隠密性という点において、現在の魔物は一年前の魔物より劣るらしい。
「でも、速い」
「……嘘」
「本当。より遠くにいる段階で感知できるけれど、距離を詰めるのがそれ以上に速い。だから、一年前よりも手強い」
「……まずいな」
「うん。だから、できれば祐一は――」
「帰らないぞ」
「……わかった」
憮然とした表情――普段のそれと大差ないが――で、舞は答える。柄に手をかけ、それきり何も喋らない。
静かだった。とてつもなく静かだ。圧倒的な質量の静寂。暗い廊下、差し込むは月光に星明り。雪がそれらに照らされて、淡く光り輝いている。視線を戻せば、そこには少女がいる。剣を携えた少女、魔物を討つ者。この静かな空間に、彼女は違和感なく溶け込んでいる。彼女はここの住人だ。幻想的なこの空間に、唯一存在することを赦される人間だ。
祐一は、自分の存在が、酷く場違いなものなのではないかと思ってしまった。
崩壊は突如として訪れた。
祐一ですら感じ取ることができた、圧倒的な負の感情。何処かに魔物がいる。
舞が月明かりに照らされた部分に歩み出て、剣を抜いた。祐一もそれに習う。窓から外をふと見ると、月が赤かった。
目を疑った。赤い月――あまりにも不吉だ。だが、それはさすがに目の錯覚で。瞬きの後に見た月は、いつもどおりの色をしていた。月影に舞い降りるものがある。雪だ。雪が降っている。
しんしんと降る雪。あまりに美しくて、あまりに儚すぎて。祐一は身震いした。
「四体」と、舞が言った。
「魔物の数?」
「そう。この学校には今、何体も魔物がいる。最高、七体に囲まれたことがある。何体いるか、わからない」
「……そんな」
祐一は絶句した。一年前よりも遙かに激烈な戦いの中に、舞は身を置いている。それでいて平然としている。何故? 何故、彼女はこうも平気な顔をして戦い続けることができるのか。
答えは簡単だ。
舞が、“魔物を討つ者”だから。
中段に構える。前方を見据えた。
「西側から二、東側から同じく二。あと――たぶん屋上。一体いる」
「五体?」
「屋上は動かない。四体相手にすればいい」
「わかった」
緊張感が走る。張り詰める。
汗が流れた。体が震える。大丈夫、恐怖と対峙したときの、それは生物としての正常な生理反応だ。大切なのは、動揺をコントロールすること。恐怖を制御された興奮に転換すれば、戦闘時の精神のあり方としては申し分ない。
深く息をする。剣先がそれにあわせて上下する。
「祐一」
「どうした」
「気をつけて。接敵まで、あと十秒」
その言葉を聞いて、一瞬頭が熱くなる。恐怖は相変わらず体を支配している。制御などできていない。
目の前に広がる、茫々たる空間。暗闇の向こうへ、遙かに続く長い廊下。そこの何処かに、魔物がいる。それも二体。
「六、五、四、三……」
舞のカウントが続く。舞の教えを思い出す。回避することの大切さ。
「二、一、来る――!」
祐一はとっさに上段の構えをとり、その勢いを借りて大きく後退する。目の前を魔物の腕が薙いだ。振り上げた刀を、力一杯振り下ろす。何かを斬るような抵抗があった。当たった?
だが、刀は中空で固定されて動かなくなった。当たったのではない、受けとめられたのだ。最悪だった。
刀を横に払われる。祐一の体も同時に吹っ飛んだ。壁に背を強く打ち付ける。一瞬、意識が遠のいた。
床に這いつくばったまま跳躍。前転でもするかのように体を転がす。先ほど背を打った壁が、魔物によって抉り取られる。
――強い。
かつてより数倍強いのではないか。身体能力もあり、何より今の魔物は頭がよかった。祐一が攻撃を回避し、移動した先には、もう一体の魔物がいた。誘導されたのだ。
挟まれた。
避ける暇もない。祐一は前方の魔物に殴り飛ばされた後、それを受けとめた後方の魔物に体を持ち上げられた。抵抗する間もなく、壁に打ち付けられる。顔面を強打する。激痛。視界が涙で滲むのがわかった。涙とは別に、顔を濡らす生暖かい液体。……血だった。
「祐一!」
舞が叫ぶ声が聞こえる。魔物に持ち上げられたまま、中空を漂う祐一は、その声の方向を目だけ動かして見た。
舞が魔物に、強烈な斬撃を放っていた。
祐一は宙に体を投げ出された。先ほどまで祐一を掴んでいた魔物が、舞の攻撃を受けて後退している。廊下に倒れ込むように着地すると、何があっても放さなかった刀を再び構えた。大丈夫、まだ戦える。
「祐一、大丈夫?」
背中を密着させながら、舞がたずねてきた。祐一は頷きながら訊いた。「残り何体だ?」
「一体もしとめていない。一体逃げたから、残り三」
言うなり舞は、また魔物に斬りかかっていった。二体の魔物を相手に、激しい戦いを繰り広げる。祐一も前の一体に集中することにした。攻撃を勘で避け、ぎこちない動作で、でも力を込めて斬る。
「――!」
舞が、何かを知覚したのか動きをとめた。戦いの最中覗き見た彼女の顔は、酷く青ざめていた。
「舞、何があった!?」
「魔物が……」
「魔物がどうした?」
「避けて祐一! 上から来るっ!!」
刹那、大地を揺るがすかのような轟音が響き渡った。激しい衝撃。立っていられずに、そのまま地面に倒れ伏す。地響きに続いたのは、大量の粉塵だった。砂煙に紛れて、駆け寄ってくる舞の姿が見えた。
「祐一、逃げよう」
「どうして……。一体何があったんだ?」
「天井を突き破って、魔物が現れた」
舞が言った瞬間だった。前方から凄まじい衝撃を受けて、祐一は遙か後方へ吹き飛ばされる。舞の叫び声が聞こえる。
「……舞」
発した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
祐一を突き飛ばした魔物が、ゆっくりと接近してくる。抵抗する暇すらなかった。全身を包み込むような圧力を感じたかと思うと、祐一は鼻先が天井に接触するほどの高さまで持ち上げられていた。天井に打ちつけられるたび、自分の体から感覚が抜け落ちていくのがわかった。
目だけを動かして見ると、舞は舞で、魔物に囲まれて四面楚歌のようだった。魔物が何体いるのかはわからない。が、この空間に魔物に満ちていることくらいはわかる。
四方八方を囲まれた。
魔物は何体いるんだ――?
舞が剣を振るう。前の魔物を斬り、取って返した刃で後ろの魔物を突き倒す。敵の攻撃を回避し、もう一体に斬撃。が、包囲を突破することはできない。
祐一は涼しげな金属音を聞いた。刀が自分の手から落ちて、リノリウムにぶつかる音だった。これで抵抗するすべはなくなった。舞は自分のことで精一杯だ。祐一は自分を掴んでいるのであろう魔物のことを見据えた。
「どうやら、俺はお前に殺されるらしいな――」
魔物の手が、振り下ろされる。
「祐一さん、頭を下げてくださいっ!」
声と同時だった。
一定のリズムで、連続して銃声が響いた。銃弾は精確に魔物を貫く。人間には聞き取れない、だが感じ取ることはできる悲鳴をあげ、魔物は祐一を手放した。銃声はなおも続く。
魔物たちは明らかにおされていた。先ほどまで圧倒的優位に立っていたはずの彼らが、銃という未知の兵器に対し、慄き恐怖している。
こんなことをするのは誰なんだろう……。さっき聞こえた声。聞き覚えがある。事態がつかめずに、呆然と立ち尽くす舞を見る。彼女に最も近しい少女。彼女の声に違いなかった。
だけど、何故彼女が――?
信じられない思いで背後を見た。そこには、小銃を構えた倉田佐祐理の姿があった。
4.
地面に半ば叩きつけられるように下ろされた祐一は、既に満身創痍で、舞に肩を抱えられるようにして歩いた。前を歩く佐祐理の背が、今は頼もしげだった。
誰も何も喋らなかった。何故佐祐理がここにいるのか、その手に握られた銃は何なのか。すべては、だから謎に包まれている。
「ライフル射撃というスポーツをご存知ですか?」
佐祐理がそう言ったのは、三人が、戦闘後学校を脱出して、家に到着してからだった。舞と佐祐理が同居している家だ。
舞は、祐一の負った傷に消毒液を垂らしている。はっきり言って、まともに治療できているとは言い難かった。とにかく染みるだけだ。だが今はそれでいい。
「ライフル……射撃?」
「はい」
頷く佐祐理を見て、祐一が最初に想像したのは飛んでいる丸い物体を散弾銃で撃つ、というものだった。だが、あれはクレー射撃という名称だった気がする。別名ライフル射撃なのだろうか、などと思っていると。
「クレー射撃とは違いますよ」
佐祐理の言葉は、祐一の心中を見透かしたかのようだった。
佐祐理によると、こうだ。
ライフル射撃という競技は、国体やオリンピックにも競技種目として存在する、れっきとしたスポーツで、移動目標を散弾銃で狙うクレー射撃と違い、固定された目標をライフルで狙う。銃種はライフルの場合四種類。光線で点数判定をおこなうビームライフル、圧縮空気で弾を発射するエアライフル、小口径ながら実物の銃となんら変わらない機構を持つスモールボアライフル、スモールボアライフルに比べて口径の大きいビッグボアライフル。佐祐理が持っているのはスモールボアライフル。ビッグボアライフルはさして普及しておらず、所有者も少ない。基本的に、スモールボアライフルは未成年は所有を禁じられているが、例外はあり、日本体育協会の推薦を受けた者のみ、十八歳以上で所有することができるという。
「じゃあ、佐祐理さんはその推薦を受けた身、ってこと?」
佐祐理はまだ未成年だ。
「ええ、まあ一応」
その時、舞が「あ」と小さく息を漏らした。なんだろう、と思ったのもつかの間、上腕の傷口に激痛が走った。
「ごめん、祐一」全然悪くなさそうに舞は言った。「消毒液、かけすぎた」
「痛い! 激しく痛い!!」
「大丈夫、祐一」
「何が!?」
「いざというときは、私が楽にしてあげるから……」
あまり楽ではなさそうだった。祐一は少しだけ、後ずさりするように舞から離れてから、痛みに顔を歪めつつも、「何故、佐祐理さんはあそこに?」と、問うた。
「舞が学校で戦っている、と教えてくれたのは、祐一さんですよ?」
何が疑問なのだ、とでも言うように、佐祐理は言った。部屋の奥の謎の物体――実は銃を仕舞うガン・ロッカー――を見て、少しだけ表情を強張らせる。
「私は、舞の親友ですから」
舞は何も言わなかった。
「私は、たぶん戦う力を持っている。なら、それを、舞を助けるために使いたい。そう思ったんです。決心するまでに、少し時間はかかりましたけれどね」
だが、定められた競技場以外での発砲は、明らかに犯罪なのではないか。そう問うと、佐祐理さんは、「大丈夫です」と言った。
「そのくらい、平気です。薬莢もすべて回収してきました。弾丸はすべて魔物に命中しましたから、弾痕は何処にも残っていません」
そういう意味で訊いたのではないのだが。だが、彼女は何を言ったところでやめないだろう。親友を助けるために、あらゆることをするはずだ。
「だから、舞――」佐祐理は、舞に向き直った。「一緒に、戦わせて?」
「……うん」
舞は、小さく頷いた。
正直、信じられない思いだった。舞が最も恐れていたことは、佐祐理が傷つくことだったのに。だから祐一は、舞は佐祐理が戦うことを、承認しないと思っていた。
だけど舞は頷いた。
「佐祐理、でも、ひとつだけ約束して」
「何?」
「絶対に、無事でいて」
声色はいつもと変わらなかった。けれど、そこには最上の願いが込められているのだと感じた。
「うん」と言って、佐祐理が首肯した。「佐祐理は、絶対に怪我もせず無事に帰ってくる。舞と、祐一さんと一緒に」
「なら、いい」
契約は成立した。あとは――戦うだけだ。
「祐一」
「どうした?」
「怪我の具合は?」
「消毒液が痛いが、特にこれといって重傷はない。明日からまた戦える」
祐一が言うと、佐祐理が模造紙のようなものをテーブルの上に広げた。なんだろうと思って覗いてみると、学校の見取り図だ。四階建てで、一階が職員室など。二階が三年生の教室、三階が二年生の教室、四階が一年生の教室。それぞれの階の東側には、化学室や被服室といった、特殊な部屋がある。
「佐祐理さん」
「なんでしょう?」
「どうしたんだ、これ」
「生徒手帳に載っている見取り図を拡大コピーしただけですよ」
「あ、そうですか」
生徒手帳など遙か昔になくしたので、気付かなかった。
「どうするの?」と、舞が訊いた。とはいっても、何をするのかはわかっている様子で、どちらかというと確認のための質問だ。
「作戦会議」と、佐祐理は答えた。
舞が言うには、今回出現した魔物は、校舎に侵入した時点で即刻襲い掛かってくるという。そういえば、俺のときもそうだった、などと祐一は思いだしたが、そうすると気になるのが、佐祐理が学校へ来たときは、襲われなかったのか、ということだ。
「大丈夫でしたよ」と、佐祐理は言った。「魔物が皆、舞と祐一さんのところへ行っていたんじゃないでしょうか」
そういうことにしておこう。
というわけで、例外があるとはいえ、基本的には学校に突入した時点で交戦は避けられない。逃げるにも、相手のスピードはこちらを遙かに上回っていた。
「……たぶん」会議の途中、舞がぽつりと言った。「屋上から動かない奴が、ボスだと思う」
「ボス?」
思わず祐一は訊き返した。
「うん」舞は首を縦に振って、「魔物は見えない。“感じ取る”ことしかできない。その屋上にいる魔物は、一番感じ取りやすい。言葉を変えれば、一番大きい。強い」
「そいつを倒せば、魔物は全部消える――とか、そういうことはないのか?」
「たぶん、ある。屋上の魔物を倒せば魔物はいなくなる。理由はないけど――絶対そう」
おそらく舞は、それをも感じ取っているのだろう。舞はそういう力の持ち主だ。
「じゃあ、その屋上の魔物を倒すという方向で、作戦をたてるよ?」
佐祐理がマーカーで、屋上に印をつけた。そこが、目指すべき場所。
「きっと」
舞が静かに言った。
「屋上へは辿り着けない」
「どうして?」と、祐一は問うた。何故、舞はそんなことを言うのだろう。希望を――三人の想いを挫くようなことを。
「極めて現実的な判断。魔物の戦力と、私たちの戦力を比較すれば、おのずとわかる」
「そうだね……」佐祐理が首肯した。「だったら、昼の内に学校に侵入しておく?」
「それしかない」
「なら、作戦の決行は休日か……」
祐一は呟いて、カレンダーを見た。平日は、遅くまで部活動が続く。先生の数も多いだろう。昼の内に学校に人知れず侵入するのは難しい。
「ええ、そういうことになると思います」
佐祐理も、カレンダーを見据えた。その視線は明後日――日曜日に向いている。
「今日みたく囲まれたら、どうしようもない」
視線をテーブルの上の見取り図に戻して、祐一が言った。一階の西側の廊下を指差して、舞と佐祐理を見た。
「俺と佐祐理さんが、ここで魔物をひきつける。その隙に、舞は屋上の魔物を倒してくれ」
刀で深く斬りつけても死なない相手だ、スモールボアライフル程度の火力では、支援にはなっても主力にはならないだろう。よって屋上に行くのは、剣ないしは刀を持った、舞か祐一でなくてはならず、しかも残った一方は一階に残らなくてはならない。
屋上の魔物を仕留めるのが、今回の目的だ。三人の中で、一番腕のたつ舞を三階に配置する。残る二人は必然的に一階。佐祐理が舞と行動を共にするという選択肢もあるが、そうすると祐一が危険すぎる。
魔物に包囲される危険は、三人に等しくあった。だからこの作戦には速度が求められる。囲まれる前に、屋上の魔物を倒さなくてはならない。
祐一の言葉から、それらを一瞬にして読み取ったのであろう二人は、何も言わずに「わかりました」、「わかった」と言った。
作戦の細部の立案に移る。戦闘終了後落ち合う場所は、校門と決まった。話し合いながら、これで魔物を仕留めることができる――そんな確信が、祐一の中にはあった。
interlude
不吉と美麗の象徴の如き蒼い月から、静かに降り注ぐ狂気じみた光によって、その空間は、神秘的な雰囲気と共に、生々しい悪意と殺意に塗れていた。先ほどまで雲に隠れていた月は、今ははっきりと顔を覗かせ、そのさまは、この世界の因果律を操作しているようにすら見える。それほどまでに圧倒的な月光だった。
雪が降っている。何物をも浄化する穢れなき白――嘘。雪は降り積もって、この世界をすべからく別のものへと変容させてしまう。恐るべき何かへと変えてしまう。いつか見た夕日を思い出した。彼と共に見た夕日。黄金の草原――彼は一番近くて、一番遠い。
かつてここで、私は彼女と戦った。そして今、また戦う。
何故戦うのか――理由はない。あるとすれば、それは私の存在の根本的な部分だ。即ち――魔物だから戦う。
そう、私は魔物。彼女にそう定義づけられた時点で、私は魔物となった。
学校の屋上。独り、座り込む。蒼い。月明かりに照らされて、雪明りが反射して、すべてが深く蒼く美しく、そして恐怖に彩られている。戦慄に縁取られている。
彼女はもうすぐここに来るだろう。そしてそれは、一年前には逃れることのできた、本当の決着となるだろう。彼女にとっても、そして私にとっても、それは辛いことだ。だけどそれは避けられない。私は彼女なのだから、この邂逅は、必然。
私は口笛を吹いた。魔物を覚醒へと導く、それは魔笛。彼女たちが来る。いや、もう来ている。夜にしか現れることができないという私たちの弱点を突いて、彼女らは昼間に侵入してきたのだ。魔物として、私は彼女たちを歓迎しなくてはならない。だから魔物たちよ――私の分身たちよ。彼女らを、襲え。
他の二人は下に残り、彼女は一人でここに来るようだった。望ましい展開だ。何故なら彼女と、一対一で会えるから。
鉄扉を開け放つ音がして、月の静謐に満ちていたこの屋上に、一陣の風が舞い込んだ。私を呼ぶ声が聞こえる。私は手すりにかけていた手を離し、後ろを振り返った。彼女がいた。白銀の刃の剣を携えた、美しい少女だった。
5.
陣取るのは廊下の端、行きどまりになっている部分だ。窓は開放しておいて、やばくなったらすぐに逃げ出せるようにしておく。
行きどまりを戦いの場に選んだのは、挟撃を受けにくいからに他ならない。祐一は前面に出て戦い、壁を背にライフルを持った佐祐理が、それを支援する。魔物がライフルに怯えてくれているうちは、まだまともな戦いができるだろうが、先のことはわからなかった。
中庭に灯された街灯が、微かな光を廊下に届ける。闇に塗れたその光は、不思議と神々しく辺りを彩る。光の中に踊る影は、降り注ぐ雪だろう。穏やかな光景だった。
と。
光の量が、増した。今まで雲に隠れていた月が、姿を現したのだ。それとほぼ同時に、魔物の気配が感じ取れた。
何かに貫かれるような思いだった。何かとは、たぶん、魔物が発する存在感。鋭く、禍々しい感覚が、祐一に襲い掛かってくる。
前に――魔物が、いる。
佐祐理のスモールボアライフルが火を噴いた。空間を切り裂いて、弾丸は遠く前方の魔物に突き刺さる。元来のライフル射撃の的に比べれば、魔物は遙かに大きい。廊下の端から端程度の距離ならば、最高の精度でもって、スモールボアライフルは射撃をおこなえる。
魔物が距離を詰めてくるのがわかる。どうやら、ライフルのダメージは大したことはないと判断したようだ。あまり嬉しくない展開だった。
こうなった以上、ライフルは支援用の武器にしかならない。援護は貴重だが、主力がいなくては話にならなかった。そして、その主力とは自分のことだ。祐一はそこに思い至り、汗が体を伝うのを感じた。
前回の戦闘で魔物につけられた傷が、疼くように痛んだ。体が恐怖を覚えているのか。祐一は、恐怖を押し殺すように刀を握り締め、床を蹴ると一直線に走り出した。すぐ脇を、佐祐理の放った弾丸が通過した。
ほとんど時間を置かずして、魔物との距離はほぼ零になった。振り下ろされる魔物の腕。――寸前で回避。逆に刀の刃を、魔物の体にねじ込む。
咆哮が轟いた――いや、それは音ではない。もっと観念的なもの。精神に直接響く、魔物の悲鳴。
素早く刀を引き抜いた。斬りつける。何かを断つ感触が手に伝わってくる。正直、不気味だった。
別の魔物が近付く。再び銃声。ほとんど聞こえないほどの小さなものだ。連続して聞こえた。祐一が相手にしていた魔物に、銃弾が次々と撃ち込まれる。
もう一体の魔物に斬りかかった。水平に斬り払う。あっさりと回避される。
腹に衝撃が伝わる。魔物の腕がめり込んでいるのが感じ取れる。祐一は壁に叩きつけられた。だがそれ以上の攻撃はなかった。佐祐理がライフルで、魔物を足どめしてくれていた。
立ち上がり、前方を睨みつけるようにして見据えた。魔物が、……たぶん三体。増えている。これからも増え続けるだろう。祐一は正眼に構えると、呼吸を整える暇もなく、再び魔物の群れるその場所へ、飛び込んでいった。
6.
信じられなかった。
扉を開け放った瞬間に目に飛び込んできたのは、異常なまでに蒼く光り輝く月、中空をひらひらと舞う雪と、そして自分自身だった。舞は、一歩を歩みだして、この学校の制服を着て自分と同じ剣を握り締めた少女に、話しかけた。
「あなたが、魔物なの?」
少女は振り返った。やはり顔は舞自身。しかし、幾分幼い。制服を着ていることからもわかる、そう、彼女は一年前の川澄舞だ。
「私?」と、少女は自分を指差して言った。「私が、魔物?」
「――違うの?」舞は反問する。
少女は、黒髪を揺らして、首を横に振った。そして、だけど、と小さく呟くように言う。その呟きは静謐に飲み込まれてしまいそうで――でも、絶対的な存在感があった。青白い世界。舞と、少女と。二人しか世界には存在しない。
「違うわけではない」と、少女。「でも、正解じゃない」
舞は眉をひそめた。「どういうこと?」
「私も魔物」
「私、も?」
「私はあなた、あなたは私。私は魔物、だからあなたも魔物――当然の帰結」
そう言って、一年前の川澄舞は笑った。嫌な笑いだ、と思った。
「一年前に、あなたはいなくなった……そうではなかったの?」舞が問う。
「いなくなんてならない」冷徹な声で一年前の舞が答えた。「魔物はあなた自身だった。あなたがいる限り、魔物はいなくならないの」
「…………」
「幾つか、質問させてもらってもいいかな」
「……何」
「あなた、今、“力”を持っている?」
舞は首を横に振った。一年前の舞はまた笑った。
「そう、今のあなたに“力”はない。その“力”が今の私、即ち魔物」
そして、もうひとつ。そう呟いて、一年前の舞は舞との距離を詰めてきた。手を伸ばせばとどく距離にまで。自分と同一の存在が目の前にいる。舞は動けなかった。剣を握り締め、魔物を断つと決めた心は、どうしたことか凍り付いていた。
「唯一で、最大の疑問――あなたが今まで、ずっと避け続けてきた、目を背け続けていた疑問。それを、私があなたに突きつけてあげる」
一年前の舞は――魔物は、言った。
「何故、あなたは生きているの?」
世界は、月明かり照らす沈黙に還元された。誰もその沈黙を破ろうとはしなかった。そうすると、ひとつの言葉でひび割れた世界が、今度こそ耐え切れずに、壊れてばらばらになってしまいそうだった。かろうじて舞がしえた質問は、「……どういうこと?」という、それだけだった。
「言葉どおり」魔物は何度目かの笑みを見せた。「あなたは、一年前、確かにこの学校で自刃した。自分で自分の腹を引き裂き、臓物を床にぶちまけ、あなたの生命はそこで断たれたはずだった。それなのにあなたは今、ここで生命活動をしている。生きている。何故? 何故あなたは――死んだはずなのに、生きているの?」
答えられるはずもない。あのときの記憶は曖昧だ。半ば無意識的に自分を傷つけ、意識は途絶え、次目覚めたときには、舞は傷ひとつない体で祐一に抱かれていた。
どうして?
何故、生きているのだろう?
考えたこともなかった。
悪魔が囁くかのように、魔物は言った。
「理由は簡単。“反転”が起こった、それだけ」
「反転?」
飛び出たのは、場違いな言葉。舞は思わず訊き返す。
「そう。魔物は、生み出された時に、力の持ち主がしていた姿かたちをそのまま模して現れる。現に、幼い頃に川澄舞が生み出した魔物は、幼少の舞の形をしていた」
では、この目の前の魔物は……一年前の姿をしているのだ、一年前に生み出されたということにならないか。
「今回現れた魔物の身体能力が大幅に上がっていた理由も、これで説明がつくよね? 幼く非力な川澄舞と、成長してあらゆる能力が上がった川澄舞。魔物となった場合、どちらがより強い? ――感知しやすくなったのは、大きさの問題。幼少の魔物は幼い故に小さい、だから感じ取りにくかった。でも今の魔物は、あなたの成長と比例して大きくなっていた」
「……何が言いたいの」
舞の声はかすれていた。
「つまり、今この学校を跳梁跋扈している魔物は、私は、一年前に出現したもの。そしてその誕生の瞬間が、川澄舞の自刃だった。あの時、川澄舞は死んだ。あれだけの傷を負って、治療もせずに、生きていられるわけがない。では今生きている川澄舞、つまりあなたは何なのか。解答――あの時討ち損ねた、最後の魔物」
眩暈がした。視界が不安定だ。この魔物は……何を言っているんだ?
「そう、刃が川澄舞の腹部を貫いた瞬間、川澄舞は死んだ。そして残された魔物は新たなる川澄舞、つまりあなたになった。死亡した川澄舞は、死んだ肉体を離れ精神だけはかろうじて生き延びた。が、魔物は既に川澄舞と化していた。だから本来の川澄舞は、私は、魔物になるしかなかったの」
「私が、一年前の魔物……?」
そして、一年前の舞の姿をした、眼前の魔物が、佐祐理と一緒に弁当を食べ、祐一と出会い、魔物と戦い、祐一と体を重ね、自害した一年前の川澄舞だという。反転という言葉の意味がわかった。あの瞬間、“舞”と“まい”が入れ替わったのだ。
「それじゃあ私は――“まい”、というわけ?」
魔物は、ゆっくりと頷いた。
舞は口を開いた。何かを言わなくては、何かを喋っていなくては、目前にいる魔物に飲まれてしまいそうだった。
「でも、“まい”は観念の存在、言い換えれば精神体。実体はない筈。それが、いきなり実体を持っていなくてはならない“舞”になれるとは思えないし、それに――」
そこに、魔物が嘲笑を浮かべたような顔で、「――死んだ舞の体は何処へ行ったのか。舞があの場で死に、精神のみの存在となったのであれば、肉体は何処かに死体として転がっていなくてはならない。そう言いたいの?」と、舞の言葉につなげた。何もかも見透かされている気分だった。
舞は首肯した。魔物が再び口を開く。
「その疑問だけど。“まい”は“舞”が死亡した瞬間に、その肉体を支配して、“力”で蘇生した。つまり、“舞”は“まい”に体を乗っ取られた。だから精神体だったはずの魔物が実体を持っていることにも、死体が残っていないことにも、不思議はない。――あなた、私の言葉を否定したいんでしょう? だから、自分でも答えのわかっているはずの疑問をぶつけてくる。どんなに問題提起をしても、あなたがかつての魔物であることに変わりはないのに」
魔物――一年前までの川澄舞――は、言い終わるや否や剣を構えた。その禍々しく面妖な気配は、まさしくこの屋上の雰囲気そのものだ。ここは夜の学校、魔物の領域。
「話が長くなったね」と、魔物は笑いながら言った。「そろそろ、戦おう?」
魔物の一撃は強烈だった。放心状態で、とっさに中途半端な受けしかできなかった舞を、思い切り後方へ突き飛ばす。魔物は一気に距離を詰めたが、瞬間的に舞は、もう戦闘態勢に入っていた。剣は、低めの中段に構えられている。
精確な構えというものは、しているだけで相手を制することができる。下手に斬り込めば、構えられた剣に体をとめられてしまう――最悪貫かれる――から、相手は容易には攻め込めない。
両者一歩も動かなかった。
余計な話をしているんじゃなかった、と舞は舌打ちした。時間がない、早くしないと佐裕理と祐一が危ないのだ。速攻が求められる作戦だったのに、自分は何をしていたのだろう。
どうすればいい? 舞と魔物が同一存在であることが知れた今、舞は魔物を倒すわけにはいかなかった。それは、自分の死を意味するのだ。
距離をとって上段に構えた魔物が、じりじりと寄ってくる。考えている暇はない。舞は相手のレンジぎりぎりで、牽制を繰り返す。振り上げてから振り下ろさなくてはならない中段の構えと、振り下ろすだけでいい上段の構え。ぶつかれば、どちらの剣が先に相手に到達するかは明らかだった。だから、舞は簡単に攻め入ることができない。
「……怖い?」
魔物があの笑みを浮かべて訊いてきた。対峙は続いていた。
「なんで」
「震えてる」
「生死がかかっている戦いに望めば、人体は自然と震える。怖い、怖くないという以前に、普通の反応」
「意外と冷静なんだ」
なんだ、という顔を魔物はした。これが本当に一年前まで自分であった存在なのか、舞は首を捻りたい思いだった。
「……何故、あなたは戦うの?」
「理由なんてない」と、魔物は言った。「あなたの体からあぶれた“力”を司る精神は、必然的に魔物と化す。魔物である以上、その存在意義は破壊。私は、魔物だから戦っている」
じゃあ、魔物であることをやめさせればいいわけだ。
どうやって?
……舞も、まいも、元来同じ体の中に住んでいた精神だ。再び一緒になればいい。
構えを幾分高くした。斬撃を、いざというときは剣の腹で払えるように。そこから生まれる隙を突いて、相手を斬るなり突き飛ばすなりできればよかったが、魔物を相手にそこまでやってのける自信はなかった。
魔物が前進した。左手が動く。来る、と思った。
体勢を低くして、一瞬にして懐に飛び込む。かわした刃が、空を斬るのと同時に、舞の剣が一閃した。
相手の肉体に、容赦なくめり込んでいく剣。その感触が不気味なまでに伝わる。魔物から力が抜けた。隙を見せぬよう再び剣を構えつつ、舞は魔物の至近距離から脱する。
手負いとなった魔物は、舞を睨みつけて剣を向けた。不完全な構えだったが、全体から滲み出る気迫が、舞にそれ以上の攻撃を躊躇わせる。窮鼠、猫を噛む。今の魔物は――たぶん、強い。
勝負はたぶん、一瞬で決まるだろう。次の一撃が決定打になる。今までにない緊張。いつもは微動だにしない構えた剣の先が、微妙に上下する。
視界を上から下へ、何もかもを埋め尽くすように、ひたすら真っ白に、雪が降り注いでいた。金属と金属が、微かに触れる音がした。舞と魔物、互いの剣の先端が、隙を作らんと攻防を繰り返している。もう、互いに間合いに入るときは近かった。
「私は」魔物が不意に口を開いた。「あなたを倒す」
「それが、存在意義だから?」
「そう。だから――!!」
魔物が一瞬の隙に踏み込んだ。舞は、自分を一刀両断せんと振り下ろされた剣を、自分の剣で受けとめるようにして逸らすと、そのまま刃を返して魔物の腹部に一撃を見舞った。
舞の髪の毛が斬られて、数本、中空に舞った。
――浅い!
確かに斬撃は当たった。が、致命傷ではないだろう。勝負はまだ決していない。
だが、千日手から瞬間的に均衡が崩れれば、勝敗は一瞬にして決まってしまうことが多い。
勢いでそのまま突きを放つ。二度連続で攻撃をまともに受けた魔物に、もうそれを払うだけの力は残されていなかったのだろう。舞の剣は魔物の体に吸い込まれるようにして刺さった。
舞の攻撃は終わらない。突きの体勢からそのまま、正眼の構えに流れるような動作で戻ると、上段まで振りかぶって斬りつける。かわされると、しなやかに体を返し、刃が閃くようにして動いた。
そう――それはまるで、ひとつの芸術。
たとえそれが、単なる戦闘の技術に過ぎないのだとしても。
彼女の名前をそのまま表したかのような、華麗なる剣舞――その美しさは、見るものとそして敵を、圧倒する。
勝敗は、決した。
epilogue
「……大丈夫?」と、舞は魔物に問うた。
「いいえ」
「そう」
舞の猛攻にさらされて、魔物は立つことすらできず、地面に倒れ伏していた。
このままでは、魔物はもうすぐ死ぬだろう。それだけは避けなければならない。魔物は舞自身なのだ。
「ひとつだけ、訊かせて?」と、舞。
「何」息も絶え絶えに、魔物は答えた。
「なんで、今になって出てきたの? あなたが誕生したのは、一年前なんでしょう? だったら、すぐにでも襲いかかってくればよかった。一年間も待つ必要はなかった」
或いは。
それは、復讐のためなのではないか、と思う。佐祐理との幸せな生活を手に入れ、それが軌道に乗ってきたところで、再び戦いの火蓋が落とされる。そんな、日常生活を崩してしまうような悲劇を、魔物は演出しようとして、これだけの期間、戦いが始まるのを遅らせたのではないか? そんな疑念が、舞の中にはあった。
そうあって欲しくはなかった。だって、それはとても哀しいことだから。自分の半身たる魔物が、そこまで悲痛に復讐を望んでいたとは、思いたくないから。
だから、ここでその真偽ははっきりさせておかなくてはならないと思った。
「――冬だから」と、魔物は言った。澄みきった声だった。
「冬?」
「夜が長い。戦うことのできる時間が長くなる。それだけ。私は魔物、戦い破壊することがすべて――他意はない」
舞は、魔物の答えに満足したような表情で頷き、そして言った。静かに、この静寂を壊してしまわぬように。「私と、一緒にならない?」
「どうして」
「あなたは私、私はあなた、でしょう?」
「今更、何を……」
苦痛と皮肉で、顔を歪める。
「捨てられた私の気持ちが、わかる? 同じ川澄舞でありながら、忌み嫌われ“魔物”として封印された私たちの気持ちが」
「わからない。でも、それが間違っているということだけは、わかる気がする」
「……そう」
それで十分だったのかもしれない。認識を違える者同士、真の心情理解などありえないだろう。大切なのは認めること――受け入れること。
舞は言った。
「私たちは長い間、互いに互いを欠いていた。自分の体の一部分を欠損していた。今、それを埋め合わせよう。真の川澄舞に、なろう?」
自分でも驚くほど饒舌だと思った。魔物は穏やかな笑みを浮かべると、そのまま目を閉じた。魔物の体が消えてなくなった。それと同時に、体の中に何かが満ちていくのを感じた。
空を見上げた。意外な光景が、そこにはあった。
雪がやんでいる。つい先ほどまで降っていたのに。
魔物はこれで、本当に消えたのだと確信した。あれほど忌み嫌っていた力は、再びこの体に宿ったけれど。
――これで、いい。
“舞”も“まい”も、すべてあわせて川澄舞という人間なのだ。いくら辛くとも、苦しくとも、その二つをわけて過ごすなんて、してはいけない。
佐祐理と祐一の顔を思い浮かべる。大丈夫、この力があろうとも、あの二人とであれば、ずっとずっと歩いていける。そう確信する。
舞は歩き出した。新たなる自分の第一歩。それは、二人の無事を確認すること。
空が白み始めていた。舞は屋上の柵から身を乗り出すようにして、落ち合う予定の校門を望み見た。小さな人影が、こちらに向かって手を振っている。その隣では、座り込んだ影が、肩を上下させて白く息を吐いていた。手を振っているのが佐祐理、座り込んでいるのが祐一だろう。二人の姿を見て、急に懐かしさがこみ上げてくるのを感じた。別れていたのは、ほんの数十分ほどなのに、どうしたのだろう。たぶん、夜の学校が非日常的すぎるのだ。
――今はただ、温もりが欲しい。
舞は思い切り手を振り返した。光が溢れそうになる地平線が、誰も見たことのない新たなる朝の訪れを、静かに指し示していた。
(了)