[PR]DoCoMoご利用の方必見!:無料の運命鑑定≪スピリチュアルの館≫

 特に青林檎を食べたいと思ったわけではない。
 陽射しに明るんだ夏の日だった。大学は午前の一時間だけで終わり、鈴はどこに立ち寄ることもなく帰路についた。家に残した理樹のことが心配だったし、理樹がいないと鈴自身もなんとなく不安だったからだ。それはどこか落ち着かない、我身が我身から剥がれ落ちるような感覚だった。理樹がいないといつもこうなるのだった。
 電車を降りて早足で家に向かった。この春から二人で始めた見知らぬ街での生活にもだいぶ慣れて、変な脇道に入って迷ったり、変な脇道に入ってすらいないのに迷ったりすることはなくなった。どこにどんな店があるのかも覚えた。だから、細い路地を抜けた先に八百屋があることも鈴は知っていた。しかしその店先で青林檎に出会うとは思いもしなかった。その青々とした色が不意に視界の端を横切って、鈴は脅かされたように、誰もいない小路の真ん中で立ちどまった。
 静かだった。遠くの道路は逃げ水に歪んでいた。陽光に照らされた路面と、影に覆われた路面とのコントラストが鮮やかだった。八百屋ではくだものも売っているのかとか、今は林檎の時期なのかとか、そんなことを考えつつ、店のひとに変な目で見られるのも気にせずに店頭にしゃがみ込むと、林檎の色と形とに、まじまじと見入った。まだ硬い果実が微かな香を底に溜め込みながら、瑞々しい表面を曝け出すようにして、陽射しの中で青く息衝いていた。
 そのとき突然、家で待っているはずの理樹を思い出した。一度の眠りはさほど長くない。もう起きているはずだ。
 今朝朝食を食べ終わって食器を洗っているとき、理樹は皿を落として真っ二つに割り、ほぼ同時に自らも崩れ落ちるように床に倒れた。ナルコレプシーだった。同じ必修の講義を受けるために一緒に家を出るはずだったのが、仕方なしに理樹を布団に寝かせて、鈴だけが出かけた。
 以前そのようなことがあった際には学校に行かず枕元で理樹が目覚めるのを待っていたのだが、鈴までそうしていては単位が危ない、という理樹の言葉に従って、今では独りで外出するようになっている。
 土産、というほどのものでもないが、理樹のために林檎を買っていこうと思った。
 座り込んだまま会計を済まし、青林檎のいっぱいに詰まったビニール袋を受け取った。袋の重さを指で痛いほどに感じつつ、残りの陽曝しの家路を歩いた。あまり綺麗ではないアパートの一室に帰り着く。猫たちは出かけているのか見当たらない。理樹だけが、鈴が布団に横たえたときと同じ姿勢のままで眠っていた。起きているとばかり思っていたので驚いた。ナルコレプシーにしては異様に長い眠りだ。何かあったのかと一瞬心配になったが、規則正しい呼吸の音を聞いて安心した。
 林檎をテーブルに置き、洗面所へ向かった。日頃から理樹に、帰ってきたら手洗いうがいだ、としつこく言われているため習い癖になっていた。水は快いほどに冷たくて、鈴はなんとなく洗面台の底に栓をして溜め込んでから、自分の手をゆっくりと、蛍光灯を映し込んで微かに光を湛える水に沈めてみた。暑い陽光の中を歩いてきた熱が、指先からゆるりと抜け落ちて泡となって溶けていく、そんな感覚だった。十本の指が水底を漂うくらげのようにも見えた。
 ゆらめく水面。水の感触と静謐さ。硬く、冷ややかで、物憂く、取り留めがない――。
 それから鈴は小さな冷蔵庫に林檎を一つずつ丁寧に仕舞い込もうとしたが、思い直して、二つをテーブルの上に残した。俎板と包丁と皿を台所から持ってきて、理樹の枕元に座り込んだ。
「理樹」
 返事はない。息を吸い、吐く音だけが健やかに聞こえる。
 鈴は青林檎を剥き始める。かつてと変わらず不器用な鈴は、何度理樹に教えられても、あまり上手く包丁が使えるようにならない。豪快に切るのはまだしも、繊細な作業は苦手だ。だから鈴は不器用に、蜜を含んだ実を削ぎすぎたり、変なところまで切り込みを入れたりしながら、それでも着実に青林檎を剥いていく。
 理樹が起きたら――夢の世界か、夢すら見ない暗いところから帰ってきたら、食べさせてあげようと思う。
「でも、あんまり起きなかったら、食べちゃうぞ」
 言って、手をとめて考え、理樹の寝顔を見てから、もう一言。
「そうしたらまた剥いてやるから、安心しろ」
 そしてまた作業を再開する。
 鈴の背のすぐ後ろには、レースのカーテンを通して、窓から陽が斜めに差し込んでいる。


[PR]中古車探すならガリバー:在庫多数、全車保証つき!