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終わる世界の鏡像





「えいえんのせかい」 0

 零れ落ちるような光が目の前の草原に落ちている。
 意識が、遙か水底から浮かび上がってくるかのように、だんだんとはっきりしてくる。細かく裁断された思考の残滓が、やがて集まり補い合って、ひとつの何かを形成する。
 雲が流れていた。
 風に押されて、鮮やかな蒼穹の中を、真っ白な雲が進んでいた。
 僕が最初に見たのは、そんな情景だった。
「ここは……何処?」
 口をつく、呆けたような言葉。
 吹き付ける風は爽やかで気持ちのいいものだったけれど、知った風ではなかった。何処か遠く、僕の知らない場所から吹いてくる風だった。
(ここは、終わった世界だよ)
 僕の声に応じる別の声があった。振り向くと、そこに君はいた。
 眩しいほどの碧空に、何処までも流れていく雲。絶え間なく吹き付ける風、青草をなびかせる草原。そんな世界の真ん中に、君は立っていた。
「君は、誰?」
(わたし?)
 僕の問いに、君は少し困ったような表情をする。やがて決然とした表情で、(わたしは……わたし、だよ)
「まあ、それはそうだけど」
(お帰りなさい)君は微笑んで言った。(ここが、あなたの望んだ世界)
「僕が望んだ世界……?」
(そう。すべてが絶望に包まれたとき、望み願った、永遠の――)
 君はそこまで言って、不意に口をつぐんだ。君は幼い容姿の少女だったけれど、その表情はずっと大人びているように、僕には感じられた。
(やめよう)君は、ちょっとだけ陰のある笑みを見せた。(この世界で、あなたは永久に生きていける。望むなら、他の何処へだって行ける。それでいいよ)
「言っている意味がわからないよ」
(わからなくていいと思うよ)
 そう言って、君は僕のほうへ歩み寄ってきた。風が強くなってきている。雲が速い。
 君は僕の隣に並んだ。甘い匂いがした。僕は急に恥ずかしくなって、自分の体を、少しだけ君から遠ざける。すると君は僕の服の裾をぎゅっと掴んで、(離れちゃ駄目、だよ)と、言った。
 風が草原を撫でた。
 恥ずかしさを紛らわせるために、何か言わなくてはと思った。少し考えて、僕は、君の名前をまだ知らないことに気がついた。
「君の名前は、何?」と、僕は訊いた。
 すると君は、少しだけ悩ましげにして、(教えてあげないよ)と、笑って言った。
「どうして?」
(この世界にはね)と、君は話し始めた。(わたしと、あなたしかいないんだ。だからだよ。この世界には、“私”という一人称と、“あなた”という二人称だけがあればいい。他は、いらない)
「つまり」僕は言った。「名前の存在には意味がないということ?」
(そう)
 君は嬉しそうに微笑んだ。
 この世界に僕と君しかいないというのは、薄々感じていたことだった。改めて君の口からその事実が伝えられても、驚きにはつながらなかった。
 ひょっとしたら僕は、無意識にこの世界を知っているのかもしれない、と思った。




「えいえんのせかい」 1

(記憶?)
「そう、記憶」
 気が付けば、風景は変わっていた。遙か高みの空から、真っ白な雲海を見下ろす位置にいる。
 それは不思議な光景だった。
 十重二十重に重なった雲たちが、風に吹かれて渦巻き混ざり合い、光を浴びている。
 雲の下には、たぶん何もないのだ。海があるかもしれないけれど。
(そっか)と、君は言った。(あなたには、記憶がないんだね?)
「ない」僕は頷いた。「まったく、ない」
(それはね、あなたが望んだからなんだよ)
「僕が、望んだ?」
 風が強くなる。
 僕は風を切るようにしてそこにいる。
 君が隣に寄り添うようにして立っている。
 どれだけそうしていただろう。この世界に時間の感覚は、ない。
「僕は」やっと出た声は、掠れていた。「何故、記憶を失うことを望んだの?」
(とても、とても哀しい思いをしたからだと思うよ)君は言葉どおり、少しだけ哀しそうに言った。(とても哀しかったから、記憶ごと、その哀しい想い出を消してしまいたいと願ったんだよ)
「いつ?」
(ここに来る前、だよ)
 哀しい思いをしたから忘れたんだ、と言われても、実感はわかなかった。当然だ。忘れている以上、昔あったはずのその記憶が本当に哀しいのかは、判断のしようがない。
「ここに来る前の僕は」
 僕は彼女のほうを向いた。彼女は穏やかに微笑んでいた。
「何処にいたんだろう」
 風景がまた、変わった。


 そこは、赤の世界。
 紅に染まった光がまっすぐに、沈みゆく太陽から降り注いでくる。
 雲は橙色の光を反射して、幾つもの光の放射を四方へと走らせる。
 風はない。
 静かだ。とても、静か。壊れてしまいそうなくらい……壊してしまいたいくらいの、静寂。
(あなたがいた世界は、あの夕日の向こうにあるんだよ)
 君は透き通った声で言った。
「遠いね」
 僕は呟いた。感慨を込めた呟きのつもりだったのだけど、妙に淡々とした声になってしまったように思う。
(うん、とても遠い)と、君は言った。(もう、戻れないくらいに)
「君は、僕のなくなった記憶を、知っているの?」
(知ってるよ。どうして? お話して欲しいの?)
 風景は凍り付いていた。目の前の何もかもは動かなかった。
 夕日が沈んでいくことは、なかった。
 僕はさっき嘘をついた。僕はすべてを忘れたと言った。
 でも、僕には、ひとつだけ忘れていないことがあったんだ。
「――“みさき”」
 口から漏れたその言葉を聞いた君は、酷く儚げな笑みを浮かべた。
(その名前は?)
「覚えているんだ。この名前だけは」
(あなたはたぶん、忘れようとしたんだよ)君は言った。(でも、とてもとても大切な名前だったから、忘れられなかったんだ)
 それは、哀しいことなのだろうか。
 忘れてしまうことなどできなかった。その事実を、素直に喜ぶべきなのか。
 それとも、忘れることができなかったことに、嘆き哀しむべきなのか。
 僕には、わからない。
 ねえ――君には、わかる?
 けれどその質問が口をつくことはない。僕はかわりに訊いた。
「“みさき”は、僕にとって、どんな人だったの?」
 君の表情は険しくなった。話すべきか、そうでないのか、判断しかねている様子だった。
(それは――)
「すべてを話してよ。“みさき”のこと、僕の失われた記憶のこと。全部」
 しばらくの間、君は考えていた。
 僕はその間、ずっと夕暮れを眺めていた。
 長い、長い時間が経った。
(わかったよ)と、君は言った。(全部、話してあげるよ)
「ありがとう」
 僕は微笑んで返した。でも君の表情は変わらなかった。
(でも、これは、あなたが望んで忘れた記憶。それだけは、覚えていて)




「語られる記憶」 1

 授業の終わりを宣言するチャイムが鳴り響くと、たちまちに教室は放課後の喧騒に包まれます。あなたはHRが終わると、教室を一人で抜け出しました。もちろん、掃除をさぼるためです。
 でも、あなたが掃除をさぼるのは毎度のことで、皆あなたを捕まえようとしていました。あなたは、クラスメイトたちから逃げるようにして、屋上までやって来ました。
 季節は冬でした。頬を撫でる風は、冷たいというより痛いんじゃないかとあなたは思いました。けれど暖房で無理矢理に暖められた室内から、凍てつく空気の外に出るのは、それなりに爽快なことです。
 あなたは屋上へ出る扉を開きました。風が舞い込んできて、小さくその場で渦を巻きました。寒さに一瞬体を震わせましたが、あなたは意を決して外へと出ました。
 ――あなたは、息を飲みました。
 そこには、とても綺麗な夕日があったのです。
 オレンジ色の澄んだ光が、遠い遠い空からまっすぐ差していました。例えようもなく美しかったので、あなたはしばらく動かずに、ただじっと、その光を見つめていました。
 そのとき、あなたは、彼女に声をかけられたのです。
 夕日、綺麗? と、彼女はあなたに訊きました。先ほどの刺すようなものとは打って変わって、穏やかな風が吹いてました。
 風が気持ちいい、と彼女は言います。夕日も綺麗だとあなたは言いました。
 何故だかわからないけれど、あなたは彼女から、目を離すことができませんでした。たぶん同い年くらいの女の子。この学校の生徒でしょう。同じ学年には見かけたことがないので、ひとつ上かもしれません。年下には、見えませんでした。
 明日は晴れるね、とあなたは言いました。何故なら、こんなにも夕日が綺麗だからです。でも彼女は、夕日が綺麗だと翌日晴れる、というのは迷信だと教えてくれました。
 あなたは彼女に、名前を尋ねます。
 彼女は、川名みさきと名乗りました。


 これが、あなたと彼女の出会い。
 これからあるべき哀しい終幕へと進む、悲劇の物語。




「えいえんのせかい」 2

 君は、不意にそこで語りをとめた。
 僕が不思議に思っていると、君はこちらを向いて、微笑みながら(どう?)と、曖昧な質問を投げかけてきた。
「どう、って?」僕は問い返した。
(感想。聞かせてよ)
「まだ終わっていないだろう?」
(途中経過だよ)
 僕は空を仰ぎ見た。天頂は夜を想起させる薄暗さを帯びている。沈みつつある太陽はもう、そこまで光を届けることができない。
 風があればいいのに、と思った。このたくさんの雲を、何処までも運んでくれる風があればいいのに。
「そうだね」と、僕は言った。「優しい物語だね」
(優しい?)
「そう。優しくて、穏やかで。とても、とても幸せな物語だよ」
 でも、君の語る物語は、そんな幸福に包まれた話ではない。それは最初からわかっている。
 哀しいがために捨てた記憶――。
 きっと、崩壊は一瞬だ。築き上げられてきた幸せが大きければ大きいほど、その悲劇は悲惨なものになるのだろう。
 君が語るのは、そんな物語なんだね?
 僕はまだ空を見上げている。動かない空を。
 ふと思った。夕日の赤は、実は炎なのではないだろうか。空の一番上の暗黒は、焦げて燃え尽きた何かなのではないか。そして今僕がいる場所は、やがて焼き尽くされてしまうのではないだろうか。
 ……馬鹿な幻想だ。
 だけど、何もかもがとまったこの世界を見ると、僕は、その考えを完全に否定することはできなかった。
「話して欲しい」と、僕は言った。「物語の、続きを」
(いいよ)
 君は笑顔で語り始める。僕は、その声に耳を澄ます。




「語られる記憶」 2

 出会いから、数日後のある日。


 あなたは駆け出しました。昨日、みさきに勝負を持ちかけられたのです。それは、どちらが先に屋上へ辿り着けるか、というものでした。あなたは喜んでこの勝負を受けました。何故なら、みさきの教室はあなたの教室よりも一階下で、あなたのほうが断然有利だったからです。
 廊下では走ってはいけない、などと言われますが、そんなことそのときののあなたには関係ないことでした。全力であなたは走ります。
 何故、あんな冗談みたいな勝負に、これほどまで力を注いでいるのか。あなたは少し考えてみましたが、理由は、みさきの顔が見たいからに他なりませんでした。
 ひょっとしたら――。
 そのとき、目の前に屋上へつながる階段が見えてきました。
 あなたは頭の中の思考を振り払い、ゴールに向かって走りました。
 そのまま突き抜けかねない速度で、扉を開きます。冷たい風は、火照った頬に気持ちよく、不快さは微塵もありませんでした。
 いつかと同じく、綺麗な夕日が天と地の間に浮かんでいるのが見える、屋上。
 あなたに背を見せて、そんな夕日を眺めるみさきの姿が、そこにはありました。
 振り返ると彼女は、わたしの勝ちだね、と言いました。あなたは息を切らせながら負けを認めると、みさきの隣まで歩み出しました。
 今日も風が気持ちいい、とみさきは言いました。あなたも同感でした。
 でも長時間いると、さすがに肌寒くなってきました。真冬も間近です。あなたとみさきは、一緒に校内に入りました。みさきは図書室に行くと言います。
 あなたもついていくことにしました。独特の雰囲気が嫌いで、図書室にはほとんど行ったことはないけれど、みさきと一緒なら大丈夫、とあなたは思いました。
 分厚いカーテンが窓を重苦しく覆う図書室に行くと、みさきは三冊ほどの本を借りました。そしてあなたに言いました。住所教えてよ、と。
 年賀状のためです。もう十二月も後半に差し掛かり、クリスマスを過ぎれば、正月になるのです。
 あなたはみさきに住所を教えました。みさきもあなたに住所を教え、二人で年賀状を送りあおう、と約束しました。


 穏やかに過ぎていく日常。
 けれども何かが確実に侵食してくる――そんな日々。
 崩壊は、だんだんと近付きます。




「えいえんのせかい」 3

 君の声は、またも唐突にとまった。
 早く先を話して欲しいのに。焦らされているようで、少しだけ嫌だった。
 でも君は、一向に話を続けてくれようとしなかったので、僕はしばらく何もせずに、目の前の光景を眺めていた。相変わらず、すべてが動かない世界。沈黙に落ちた世界だった。
(もうひとつ、名前を思い出すことができない?)
 不意に君が言った。
「え?」
(“みさき”という名を思い出したように、もうひとつ、名前を思い出すことはできないの?)
 趣旨のよくわからない質問だった。僕は落日を見ながら答えた。
「できないよ」
(本当に?)
 僕の前に影が落ちた。君が太陽を背に、僕の前に立っていた。真摯な瞳をしていた。
 夕日が鮮やかな光の奔流を放ったのは、そのときだった。刹那、風が吹き、雲が流れた。足元の草が揺れた。世界が動きを取り戻す。静から動へ、変質していく。
 太陽はゆっくりと沈んでいった。君の影は、だんだんと消えていった。
 僕は答えた。
「うん。思い出せない」
(思い出さなくちゃいけないんだよ)と、君は言った。(あなたには、忘れちゃいけない名前があるはずなんだよ。“みさき”よりも大切な、ひとつの名前が)
 君は――泣いていた。
 何故、君は泣くんだい?
 だけど僕がそう問う前に、君は言った。
(先、話そうか)
 僕は黙って頷いた。




「語られる記憶」 3

 冬休みが終わると、またみさきと会うことのできる日々がやってきます。そのことに、あなたは胸を躍らせていました。
 始業式の日、早速あなたは屋上へと向かいました。みさきと出会った頃と比べて、そこはとても寒く、一瞬外に出るのを躊躇いますが、屋上を取り囲むフェンスに寄りかかるみさきの姿を見て、あなたは決心し扉を開け放ちました。
 みさきは軋むような、扉を開ける音に、驚いた表情を見せます。けれどあなたが声をかけると、みさきは笑顔を見せました。それをあなたは心地よく感じます。
 いろいろなことを話しました。冬休みは何をしていたのか――あなたは友達と楽しい毎日を過ごしたようです。みさきも、口ぶりからすると同様のようでした。年賀状をくれたことが、どれだけ嬉しかったことか、みさきは語ってくれました。
 始業式は早く終わったので、夕暮れには程遠い空でした。いつも夕日を映し出している空が、今日は一面に青を照らし出していて、何処か新鮮な気持ちです。
 この頃になると、あなたは薄々感じていました。
 自分は彼女が好きなのかもしれない、と――。
 あなたはその想いが一方的なものだと思い込んでいたようですが、実は違いました。みさきもまた密かに、あなたに想いを寄せていたのです。不幸だったのは、それにお互いが気付かないことでした。或いは、自分のその気持ちが、純粋な思慕であることに気付くには、二人はまだ幼すぎたのかもしれません。
 その想いが伝えられることは、終ぞなかったのです。


 あなたはその日、みさきととある約束をしました。
 一緒に遊びに行こうという約束。
 それは、とても大切な約束。
 そして――哀しい出来事は起こるのです。


 えいえんなんて想像もしませんでした。
 今がすべてだって、そう思えました。
 でも、そんな思いは幻想に過ぎないのかもしれない――あなたはそのことに、気付き始めていました。




「えいえんのせかい」 4

 三度目。君が、話すのをやめた回数だ。
 だけど今回は、前の二回とは様子が違っていた。君の顔は青ざめている。酷く苦しそうで、それ以上に辛そうだった。それが原因で話を中断したのは、明白だった。
「どうしたの?」と、僕は訊いた。「哀しいの?」
(違う)と、君は言った。(絶望しただけだよ)
「絶望……?」
 君が何を言っているのか、何を伝えたいのか、僕にはまったくわからなかった。でも君が、それを説明することはない。しばらく沈黙のときが続いた。それを打破したのは君だった。
(もう、お話できない)
 君はそう言って、涙を拭った。瞳いっぱいに溜まった涙は、だがそれだけではどうしようもないくらいに、とめどなかった。夕日はもう沈んでいる。光の欠片が地平線に微かに認められた。光は、それだけだった。
「何故?」と、僕は問うた。
 君は僕に背を向けて数歩歩いた。風が強くなっていた。
 僕は君の背に、再度尋ねた。
「もう、話してくれないの?」
 その言葉に応じるように、長い髪を揺らして振り返った君は、酷く美しく、それでいて脆く見えた。地平線に落ちる最後の光が、君の涙に反射して輝いた。
(駄目……駄目なんだよ)
 もう君は涙を拭ったりはしなかった。ただ、流れるままに。
(あなたのためなら、たとえどんなに辛くても、お話しようと思った。あなたに記憶を、取り戻して欲しいから。でも――)君は一瞬、言うのを躊躇ったようだった。でも一度決心すると、一息で、(やっぱりわたしには無理だったんだ。わたしがこの世界にいる限り、わたしはあなたの記憶を語ることなんか、できないんだよ。この記憶は、この世界を生み出した直接の原因だから。最も辛い、過去だから)
「……そっか」
 僕は草原に座り込んだ。すっかり暗くなった辺りを見回した。
(ねえ)君は言った。それは以前にも聞いた質問だった。(“みさき”の他に覚えている名前は、ないの?)
「ない」と、僕は前と同じように答えた。
(そう……)
 君はそれ以上追及しなかった。
(わたしがお話をしてあげることはできないけど、あなたはもう自力で記憶を取り戻せると思う)
「自力で?」
(うん)君は頷いてから言った。(いつかの質問に、答えるよ)
 僕は首を傾げた。「質問?」
(わたしの名前)
「ああ」
 僕が君に名前を訊いた時のことを言っているのだ。その時君は、『この世界には一人称と二人称しか存在しないから、名前に意味はない』というようなことを言って、結局僕に名前を教えてくれなかったのだ。
 何故今になって、名乗る気になったのか。
(わたしの名は――)
 わからない。考える暇もなく、君は、名乗った。
(川名みさき、だよ)


 すべての記憶が、晴れた。
「そうか……」
 自然と、そんな言葉が口をつく。
 君の名前を聞いた瞬間、何もかもが鮮明に、僕の頭の中に立ち現れてきた。君が語ってくれた物語。その中心に、君の姿かたちというピースを当てはめるだけで、こうも鮮やかに、記憶は蘇る。そう、あの日僕の前に現れた、まるで天使のように可憐な少女は、他でもない君だった。
 そして僕はたちどころに理解した。何故君がここにいるのか、何故僕がここにいるのか、何故この世界はあるのか。一連の事象は、いつをその発端としているのか。
 振り返ると、そこには幾つもの風景が連なっていた。あるものは冬の海。あるものは大空。あるものは夕焼け。あるものは暗黒。あるものは――。
 そしてそれらすべてから見渡せるのは、君と僕が、昔いた世界なんだよ。
 君が、すべてを知っていたのも頷ける。君は自分で体験し、僕のことをずっと、ここから見てきたのだから。
「全部わかった」と、僕は君に言った。
(そう……よかった)
「今までごめん。君のことを、忘れていて」
 君は僕の言葉に、静かに首を横に振った。(いいんだよ。思い出してくれたなら、ね)
「……ありがとう」
(すべて、思い出したんだったら――)と、君は言った。嗚咽に紛れて、声は聞き取り辛かった。(わたしが語れなかった、物語の続きを、お願い、紡ぎ出して)
「構わないけれど、いいの?」僕は訊いた。「これは君にとって、辛い記憶のはずだ」
(あなたにこそ、いいの? あなたにとっても、辛い過去のはずだよ?)
「僕は――」
 逡巡は、一瞬。僕は宣言するように、言った。
「大丈夫。君が隣にいれば、僕は、大丈夫」
(そっか)
 君は涙目で、空を仰ぎ見る。静謐でいて、確かな胎動を続ける空。儚くも、美しい。
(だったら、お話して欲しい。あなたが記憶を取り戻したのだという、確固たる証拠を、この手にしたい。あなたの手で物語が綾なされるのを――、私は、見たい)


 僕たちを取り囲む世界が、ゆっくりと崩壊していく。いつか夢見た永遠の世界――でもそれは、かつて眺めた風景の、歪んだ鏡像に過ぎなかったのかもしれない。
 何故なら、いつか世界とは終わるものだから。
 何もかも、すべてが終焉に向かっているのだから。
 だけど、僕たちはそこから確かに何かを掴み取った。
 そして終わった世界に背を向けて、想い出を抱いて、前へと進むことが、必ずできる。今は無理でも、いつか、きっと。
 だから、僕は語ろう。
 君が望むそのとおりに、失われた哀しみの記憶を。
 それが君の背を、少しでも押すことができるのなら。
 かつて君を愛し、今君を愛する僕の願い。
 それを、この物語に、込めよう。




「語られる記憶」 4

 僕は約束の時間に遅れた。
 原因は簡単だ。時計を見たら、約束の時間までだいぶあった。もう少しゆっくりできる、とくつろいでいると、時計が先ほどから全然進んでいないことに気がついた。そう、時計はとまってたんだよ。些細なことだった。
 君との約束は、「一緒に高校へ遊びに行こう」というものだった。
 なんでも君は、家の近く――それはまさに目と鼻の先だ――にある高校に、頻繁に遊びに行っていたらしい。初めは教師に見つかるや否や、すぐに追い出されたけれど、そのうち見逃してくれるようになったって、君は笑って言っていた。高校生と一緒に学食に行くこともあったとか。
 君も知ってのとおり、僕たちが通っていた小学校に学食というものはなかったから、僕はそれがどのようなものなのかとても興味を持った。だから、僕は君についていくと言った。
 もっとも、学食がなくてもついていっただろうけれど。
 その頃、僕はもう、君以外目に入っていなかったといっても、過言ではないからね。


 とにかく僕は、約束の時間に遅れたんだ。集合場所は、その高校の前。遅れた時間は三十分くらいだった。君は、遊び場を目の前にして待ちきれなくなったんだろうね。いつまで経っても姿を見せない僕に、愛想をつかして、ついに高校の中へ一人で入っていった。
 その時の僕はというと、一生懸命走っていたよ。もう十分迷惑をかけているけれど、それでも君を困らせちゃいけないと、必死に走っていた。少しでも遅刻の時間を減らせればいいと思った。全力で走った。
 高校に着いたのは、家を出て十五分後だった。意外に近いんだなって、僕はなんとなしに思った。これほど近ければ、ひょっとしたら今後も君と一緒にここへ来ることができるかもしれない、そんなことを思ってもいた。
 だけど――君は校門の前にいなかった。
 僕は軽い衝撃を受けていた。怒って帰ってしまったのではないか、とか思っていたんだよ。でも思い直して、校舎の中にいるに違いないと確信すると、僕はこっそりと忍び込んだ。
 校内はあわただしかった。明らかに、たくさんの人の流れはある一方向に集中していた。僕は生徒に紛れて、その方向へ向かった。何か、胸騒ぎがしたんだ。
『社会科資料室』。
 無機質な印象のプレートには、そう書かれていた。そのプレートが、ドアの上に貼ってあった。
 その部屋の前に、人だかりはできていた。僕は、集まっている人たちに比べて小さい体を活かして、騒ぎの中心へと向かった。


 ――血塗れの君が、そこにいた。


 愕然としたよ。何もかもが反転してしまったように……酷い、酷い眩暈を覚えた。世界そのものが急速に攪拌されているような、そんな印象だった。
 酷い血の臭いがした。床に倒れこんでいる君を半ば抱きかかえるようにしている教師の胸は、深紅に染まっていた。
 床は、ひょっとしたら赤い塗装が施されていたんじゃないかと思うほどに染まっていた。本当は、たぶんそこまでたくさん出血していなかったんだと思う。当時君と僕が小学生だったことを考えれば、床全部が染まるほどの血を流して、生きていられるほどの体力があるとは到底思えないからね。
 でもそのとき、僕にはそう見えたんだ。
 そして――。景色の中で一番赤かったのは、君だったんだよ。


 君は助かった。でも代償として、光を失った。瞳が光を映すことはもうなくなり、君は、形容しがたい絶望に体と心を蝕まれていた。僕は君にかける言葉を持たなかった。それほどまでに、君は深い絶望の深淵に落ちていた。
 あるとき、君は姿を見せなくなった。それどころか、周りの人誰もが、君の存在なんか知らないと言った。そう――君は、“あっちの世界”、つまり今僕たちがいるこの世界に、旅立ってしまったんだ。抱いた、その絶望故に。
 そのときを境に、僕もまた絶望に満ちた存在となった。君ほどではないと思うけれど、でも、それから続いた日常は、辛いものだった。あの日遅れなければ、君は事故に遭わずに済んだかもしれない。君をあんな目に遭わせた責任の一端は、僕にあるのではないか……そう思ってね。このまま僕も、“あっちの世界”に旅立ってしまおうか、なんて考えもした。
 だけど、あるとき僕は恋をしたんだ。
 ――長森瑞佳という少女に。


 瑞佳と君は、似ていたよ。外見が、というわけじゃない。表現は難しいけれど――この世の中に存在する、あらゆる事象に対して、等しく一生懸命なんだ、とでも言えば、わかってもらえるかな? 彼女は純真で、純粋で、それ故、いずれ大きく傷つくだろうことが、多分に予想できた。
 そんな彼女に、僕は大きく癒され、救われた。彼女の声に心の隙間を埋められるのを感じた瞬間、瑞佳はもう、僕の中で大切な人になっていたんだ。
 彼女と恋仲になることはなかったけれど、それでも彼女は僕をこの現実につなぎとめる役割を果たしてくれていた。
 そのまま月日が経って、僕は高校生になった。
 瑞佳への思慕は消えなかった。だけど僕は、彼女に想い人がいることに気付いていた。それ故、僕はどう頑張っても、彼女を幸せにすることはできないという確信があった。
 そんな僕が、彼女のためにできること。それは――。


 ――彼女が想い続けている人、折原浩平に、無理矢理告白させるよう、仕向けることだけだったんだ。


 気持ちが暴走していたんだと思う。そんな無茶やっても、芳しい結果が得られないことくらい、わかっているはずだった。でも僕は行動してしまった。一人称は“僕”から“俺”に変えた。人とあまり交わらず、一人で静かにしているほうが好みだったけれど、学校ではうるさいくらいに外向的で社交的な人間を装った。そうして、チャンスが来たと思ったら、すかさず「当たった人には意中の人に告白するチャンスを進呈」という、よくわからない籤を作って、意図的に浩平に当たりを引かせた。彼は思ったとおり、瑞佳に告白した。
 紆余曲折はあったらしいけれど、でも二人は、最終的には幸せそうにしていたよ。彼女のそんな姿を見て、僕は、自分を現実にとどめている鎖が断たれたことを知った。君が言った、僕が覚えていなければならないもうひとつの名前というのは、“瑞佳”のことだね? でも僕はもう、彼女に何の未練もなかった。だから、名前すらも忘れていたんだろう。ただ浩平と幸せになってくれればいいと思った。
 けれど君のことはいつまでも気がかりだった。僕は片時も君を忘れたことはなかった。だからだろうね。“えいえんの世界”を、君と共有してしまったのは。僕たちが求めた“えいえん”は、同じものだったんだよ。




「えいえんのせかい」 5

(――そうして旅立ってきた住井くんは、だけどすべての記憶を失っていた)と、君は僕の話に続けて言った。(だから最初は名乗らなかった。あなたが望んで放棄した記憶を蘇らせないためにも、わたしがみさきであることを伝えるのはよそうと思った。でもあなたは、わたしの名前を覚えていてくれた。あなたの口から“みさき”という名前を聞いた瞬間、あなたに記憶を取り戻して欲しいという願望が抑えきれなくなってきて――それで、記憶を語り始めたんだ)
 君の涙はもうとまっていた。けれど頬には、涙の伝った跡が残されている。
 僕は君の前に立った。
(でも、あなたにわたしを思い出して欲しいなんて考えは、わたしの勝手な欲望に過ぎなかったんだよね? だってあなたは、望んで記憶を捨てたんだから)
「そんなことないよ」と、僕は言った。「こうして君とまた出会えたんだから――」
 その言葉に、また泣き出しそうな顔になりながら、それでも君は嬉しそうに頷く。
 世界は崩壊しつつあった。君と僕の、蘇った絆。あちらの世界へと帰還するための、道しるべ。僕たちは、それを手に入れたのだ。
「怖い?」と、僕は訊いた。「向こうの世界へ帰れば、また光を失う」
 この世界で、君は光を失ってはいない。光に満ち溢れた世界こそが、君が望んだ“えいえん”だったから。僕が望んだ“えいえん”だったから。でも現実の世界で、君は既に盲目なのだ。ひょっとしたら、君はずっとここにいたほうが幸せなのかもしれない。君がそうするというのであれば、僕もここに残ろう。僕は必ず、君と一緒にいる。
 でも。
(――ちょっと、怖い)と、君は少しだけ不安げな声で言って、(でも、でもね)
 君の目が、現実に戻ればまた何物をも映さなくなる瞳が、僕のことを一心に見つめていた。
(それでもわたしは、生きていくよ)
「……何が、君をそこまで駆り立てる?」と、僕は訊いた。
 君は答えた。(あなたがここに来てから、短い時間の中だけど、ずっとずっと考えた。一生懸命考えた。わたしはここに逃避しちゃったけれど、逃げずにあの世界に留まり続ければ、目が見えなくても開けた新しい世界があるんじゃないかって、そう思った。あなたと一緒に歩いていける未来が、あるんじゃないかって思った。一瞬でもそう考えたら、もうこの世界はわたしにとって、必要なかったんだ)
「後悔しない?」
(しない)
 君は決然と、言った。
 視界が崩れ去ったのは、そのときだった。雪の結晶の如き破片に、それらは幾つにも分断され、ダイアモンドダストのように美しいきらめきを見せて、散っていった。僕たちにもう、えいえんは必要なかった。
「君に、ひとつだけ言えなかったことがある」と、僕は言った。
(わたしにも、ひとつだけ、言えてないことがあるよ)と、君は言った。
 じゃあ――同時に言おうか。
 僕たちは頷きあって、崩れ落ちる世界の中心で、向かい合った。


 ――好き、だよ。


 二人の言葉が重なった瞬間――。すべてが、還った。






















[ epilogue ]

 まだ、昼間だった。
 蒼空には雲すら浮かんでいない。屋上は珍しく凪いでいた。あらゆるものが静止してしまったように、世界は動かなかった。
「何にも見えないよ」
 背後で、声がした。
 僕にはその声の主が最初からわかっていた。だから振り返らずに、「うん」と言った。
「夕日、綺麗?」
「今は昼間だ」
「そっか、そうだね……」
「でも――綺麗だ」
「よかった」
 僕は振り向いた。君は、泣きそうになりながら、でも笑っていた。僕も笑っていたと思う。
 唐突に訊いた。
「生きていくの、嫌になったか?」
 これから僕たちは、永遠のない世界で生きていく。だからこの質問だけは、しておかなくてはならない。君にはすべてが見えない。盲目で、すべては――暗黒。
 君は首を縦に振った。
「嫌にならない人なんて、たぶんいないと思う。何にも見えないんだよ? 私の歩く先は、永久に闇の中なんだよ? だけど――」
 君は、言った。穏やかで、優しげで、少しだけ切なそうな――そんな微笑みのままで。
「わたしの闇を、光で照らしてくれる人が、いるから。たぶん闇が晴れることはないんだろうけれど、その中をわたしと一緒に歩いてくれる人がいるから、辛いことがあっても、生きていこうって、頑張れる」
「一緒に歩いてくれる人……?」僕はふざけて首を傾げた。「さて、それは誰かな?」
「さあ、誰だろうね?」
 君はいたずらっぽそうに言って、僕に歩み寄った。迷わずに僕の手をとると、そのまま手をつないでくる。指を、絡ませてくる。
「それはきっと――」僕に体重を預けてくる。「わたしが今、手をつないでいる人」
「だったら」
 君の手を、強く握る。てのひらに伝わる熱が心地いい。風が舞い上がった。
 ここからずっと先まで、未来は続いていく。行く先は闇かもしれない。幾多の障害が行く手を阻んでいるかもしれない。でも、僕たちはずっと歩いていける。そう、信じる。
 だから、その一歩を踏み出すために――。
「一緒に、歩こうか」
 君と僕は、声を合わせて、そう言った。













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