ノートパソコンのキーボードにドストエフスキーが突っ込んだ。間を置かずしてデリダが逆側から物凄い勢いでテーブルに飛び乗った。そうしてキーボードの上で大乱闘を始めた猫二匹を、パソコンの前に座る鈴がふかーっ!と追い払う様子を、理樹はテーブルの反対側でニジンスキーをいじくりながらぼんやりと見ていた。猫を追い払うことに成功した後も鈴は浮かない表情をしていた。二時間くらい前から書いているレポートが一向に進まないらしい。
「理樹、助けてくれ」
「助けるってどうやって?」
「代わりに書いてくれるとかどうだ?」
「受けてない講義のレポートなんて書けるわけないじゃないか……」
「いや、あたしも全然授業聞いてなかったから、理樹が書いても一緒だ」
「うわー……どうしようもないねそれ」
「ひょっとして褒められてるか?」
「全然違うからね」
代筆の依頼が失敗に終わったのを悟ったらしく、うー、と唸って、鈴はまた画面に向かった。
既に日付の変わりそうな時刻だった。だがなんとしても今日中に仕上げて、明日には提出しなければならない。レポートの締め切りは確か明後日だったはずだが、明後日は大切な用事があって学校をサボる予定だった。普段鈴が「自主休講だ」と主張して学校をサボろうとしても許さない理樹も、今回ばかりは休む予定だ。
明後日は事故の当日――みんなの、二度目の命日だ。
遠方だったり、同じ日に予定されていたりして全員ぶんには出られないけれど、可能な限りみんなの三回忌に出るつもりだった。
しかし鈴のレポートはいつまで経っても終わらない。
「原稿用紙で十枚以上とか無茶苦茶だ」
「ちなみに今何枚?」
「三枚」
はあ、と再び溜息をつき、理樹はにゃーにゃー足に絡み付いてくるニジンスキーをなだめてから鈴の隣までやって来た。画面を覗き込むと本当に進んでいなかった。しかも「たとえばMary hit John.とJohn was hit by Mary.という構造の異なった二つの文は同あkどいjhふぁい;いjhgkfrtdfcgvおしjん;いおfsldk」などと、猫がキーを踏みつけた跡がそのまま残っている。理樹はキーボードに手を伸ばしてその意味不明の文字群を消した。
「手伝ってくれるのか?」
「このままだと終わりそうにないからね……」と言って理樹は頷いた。「終わらないと困るでしょ」
「困る」
「代わりに書くのは無理だと思うけど、アドバイスするくらいなら」
「うん、それだけでも助かる」
少し右にずれた鈴の真横にくっつくように座って、理樹は既に書いてある原稿用紙三枚分のレポートに目を通した。鈴がふと振り返って背後の壁を見上げたのは、理樹が「なんだ、普通に書けてるじゃないか」と言ったときのことだ。理樹も後ろを向いた。壁掛け時計が十二時になろうとしているのが目に映った。
「理樹」と鈴は急に真面目な顔になって言った。「寝なきゃ駄目なんじゃないか?」
「え? うん、まあそうだけど」
精神科医に規則正しい生活をするよう言われている理樹だった。そのための精神賦活剤と睡眠誘導剤も処方されている。根治が今のところ不可能なナルコレプシーに対する対症療法だ。今では、以前ほどは寝入らなくなった。
「でもそんなことも言ってられないでしょ。レポート完成させないと」
「うー……」
考え込む鈴。それを華麗に無視してキーボードを叩き始める理樹。
一分後、十分に考え込んだらしい鈴が「理樹はやっぱり寝るんだ」と言った。
「え? レポートはどうするの?」
「あたしがやる気出して頑張ればいいんだ。明日の朝までにはなんとかなる」
鈴は立ち上がって台所へ行くと、薬とコップを持ってきて、理樹に押し付けた。それから理樹の体をパソコンの前からどかそうと押した。
「わ、こぼれるこぼれる」
「どけー」
「本当に大丈夫なの?」
「ふかーっ!」
踏みとどまろうとする理樹を猫化して追い返し、ついでに再びキーボードへ突貫する機を窺っていたデリダにもふかーっ!とやってから、「よし」と画面に向かう。しばらく心配そうに見守っていた理樹は、鈴がちょっと考え込んでから割と軽快にキーを叩き始めたのを見て、「じゃあ、お言葉に甘えて寝るよ」と告げた。
「安心して寝ろ」と言って、鈴はちらりと後ろを向いた。「理樹に頼ってばかりはいられない」
「そっか」
「そうだ」
頷き、前を向いてまたキーを叩く。以前の鈴に比べればとても頼もしくなったものだと思いながら、理樹は薬を飲むと、隣の部屋に入ってベッドにもぐりこんだ。睡眠誘導剤の効果が現れるのを待つ間に、でも、本当につらいときは、遠慮なく頼ってくれていいよ、と隣室に聞こえないよう小さく呟いたのは、少しだけ寂しかったからに違いない。