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 その日理樹と鈴を起こしたのは、目覚まし時計ではなく、勝手に窓を開けて入ってきたニジンスキーの細い鳴き声だった。夏休みが始まると同時に続けて関東を直撃した二つの台風の最中、果敢にもいつもどおり放浪の旅に出て、そのまま行方不明になっていた。先に気付いた鈴が理樹を起こし、二人して抱き上げたりひっくり返したりして怪我がないことを確認した後、その帰還を喜んだ。
「イギリスの三冠馬と同じ名前は伊達じゃないな」と鈴は腕を組んで誇らしげに言った。
「え? ニジンスキーってそっちのニジンスキーだったの?」
「え? ニジンスキーって他にいるのか?」
 理樹がロシアのバレエダンサーのことを鈴に滔々と語り聞かせようとしたとき、ニジンスキーに役割を奪われた目覚まし時計が鳴った。部屋の隅ではその音にも気付かないほどにぐっすりと、当のニジンスキーが丸まって眠っていた。理樹は目覚まし時計をとめてカーテンを開いた。
 青い大気の中に、金色の光がまばゆく降りしきる夏の朝だった。風もなく空は晴れ渡っていた。朝露に濡れた植え込みの緑色が輝くようだった。昨夜はまだ台風が完全に通過しておらず、時折降る雨と強風とが窓硝子を激しく叩いたものだったが、ようやく台風一過と相成ったらしい。ドストエフスキーが細く開いていた窓を手で押し開けて、外へ飛び出した。それに気付いたデリダが後を追った。すぐ朝御飯だから早く帰って来るんだぞ、と鈴が二匹の背に呼びかけるが、聞いているのかいないのか。
「台風一過だね」
 代わり映えしない表現だと自分で思いながら理樹はそんなことを言った。「そうだな」と頷いて鈴は空を見上げた。
 昔していた勘違いをふと思い出したのは、当番制に則って朝食を作っているときのことだった。縦長のパンに包丁で切れ目を入れ、続いて丸いキャベツをざくざくと切り出したところで、「そういえばさ」と鈴に呼びかけた。物凄い量の洗濯物に悪戦苦闘しながら洗濯機を回している鈴が、「うん」と答えた。
 オーブントースターのスイッチを入れる。
「昔、台風一過って、お父さん台風、お母さん台風、お兄さん台風、お姉さん台風、みたいなのだって勘違いしてたよね」
 これもまた代わり映えのしない勘違いだと思った。鈴は無反応だったが、しばらくすると洗濯物を山のように詰め込んだ籠を抱えて部屋の中に現れ、「なんか違うのか?」と理樹の背に深刻そうに問いかけた。
「……はい?」
 パンの内壁にバターを引く手をとめて、後ろを見る。鈴は真面目な顔で続けた。
「考えてみたんだけどわからん。お父さん台風、お母さん台風、お兄さん台風、お姉さん台風ってなんか間違ってるのか? ひょっとしてお爺さん台風とかも必要なのか?」
 代わり映えのしない勘違いを、二十歳の近くなった今でも続けているひとがこんなところにいた。理樹がそのことに唖然としていると、鈴は「お爺さん台風……お婆さん台風……」と呟いて、首をひねりながら洗濯物を干しに行ってしまった。これは後で訂正しておかなければ、そのうちどこかで勝手に恥をかいた挙句、どうして教えてくれなかったんだとかなんとか言いがかりをつけてくるに違いない。
 洗濯機の回る音がごとごとと壁越しに響いていた。どうやら一度では洗い切れなかったらしい。バターをフライパンの上に落としてガスレンジの火を付け、ソーセージを軽く炒めた。切り刻んだキャベツをフライパンの中に一斉に放り込んで少ししたところで、オーブントースターが程よく温まって赤々とした光を硝子越しに放ち出した。カレー粉をまぶしたソーセージを火を通したキャベツごとパンに挟むと、トースターに入れてしばらく待った。洗濯物を片付けた鈴が部屋に戻ってきた。
「台風の家族じゃなかったのか……」と朝食の席についてホットドッグを口にした鈴は、理樹の説明を聞いて言ったものだ。「理樹は物知りだな」
「鈴、それは幾らなんでも……」
「なんだその哀れんでるみたいな目はっ」
 哀れんでるみたいじゃなくて哀れんでるんだと言おうとしたが、言う前にテーブルの下で膝頭を蹴られた。理樹が痛さに涙目になっている最中に、鈴はホットドッグ二本を早々と平らげた。
「家じゃなくて過ぎるだと、意味はどうなるんだ。台風が過ぎたってことか」
「うん」と理樹は膝をさすりながら頷いた。「台風が通り過ぎて晴れることだね」
 理樹の言葉に何かしら思うところがあったらしく、鈴はちょっと考え込む仕草を見せた。そのままの表情で、四分の一に切った大きなトマトを口に持っていく。顔を起こしたニジンスキーが小さくにゃーと鳴いた。鈴はそちらを向いて猫に何か語りかけようとした。しかし口に詰め込んだトマトが邪魔して、ふがふがとしか聞こえなかった。その間抜けさに理樹が思わず「何言ってるのかわからないよ」と笑うと、鈴はトマトを無理矢理飲み込んでから、「笑うなー!」と、言葉に反して自分も笑いながら言った。


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