空色は何色なんだろう。
そんなことを考えたことがある。
辞書には薄い青色、なんて書いてあるけれど。
でも空は、青かったり黒かったり、オレンジ色だったり紫色だったりする。
決して、青だけじゃない。
それはきっと、いろいろな光とか、大気とか、雲とか。
そんな様々なものが渦巻き、重なり、織り成される、とても幻想的な色。
空色は、何色なんだろう――。
その答えを見つけたのは、あの日だった。
"空色の天球とチョコレート"
長く降り続いた雨が上がったその土曜日、支倉曜子は久しぶりに、山辺美希に出会った。
虚無と永遠が支配するあの世界から脱出して後、かつてよりは多少団結力の高まった放送部メンバーによって組み立てられたアンテナが聳え立つ、群青学院の校舎の屋上でのことだった。
「先輩じゃないですか」と、美希は開口一番、持ち前の能天気そうな声で言った。
「……何」
「いえ、別に」美希は笑った。「サボりです」
今は六時間目の授業の真っ最中だ。今この屋上にいるということは、授業をサボっていることと同義である。
「ちょっと緊張しちゃって、まともに授業受けられそうもなかったんで、抜け出してきちゃいました」
曜子は首を傾げた。何に緊張するというのだろう。
だが曜子がその質問をはさむ前に、美希が、「そういえば、おめでとうございます」と言っていた。何のことかは、一瞬でわかったので、曜子は素直に頷いておいた。
曜子は、群青学院を離れることが決まっていた。社会復帰が認められたのだ。そのことを言っているのだろう。
かつてならば考えられないことだった。黒須太一にこそ及ばないとはいえ、学院最大級の数値を叩き出した彼女だ。数値の低下それ自体が、彼女の作為の結果である可能性を考慮して、しばらくは様子が見られたらしいが、それも杞憂と判断された。彼女の人間性は確かに変質した――そう断定した学院側は、曜子を一般人として、鋼鉄の門の外の住人と規定した。
たぶんその変化は、“普通”と呼ばれるものへの変動なのだろう。かつて少数派だった曜子は、だがそのよりどころであった太一を失って、急速に個性を減少させている。太一に依存することにより成り立つ異常が、彼女を群青の色に染め上げていた。太一がいなくなって、良くも悪くも、曜子は普通の人間に近付きつつある。
「いつ、転校するんですか?」
「来週」
「あ、そんなに早いんですか」
いいなあ、そんなことを呟きながら、美希は曜子の前を行ったり来たりした。
三年生のこの時期に転校したところで、転校した先の学校で学園生活を送ることなどできようもないが、履歴書に『群青学院卒』と書かないでいいのはありがたい。そのための転校であることは、簡単に予想がついた。
「わたしは」美希は少し寂しげな表情で言った。「ここを離れる見込みはないですから」
「……そう」
「はい」
また、元気一杯に頷く。
見上げると、空は一面の青だった。絵の具にスカイブルーという色があったけれど、それとは少しだけ違う気がする。もっと、深く、透明だ。
視線を戻すと、美希がこちらを向いていた。
「先輩は、どうしてここに?」
「サボタージュ」
「いや、それはわかるんですけど」
美希は髪の毛の先端を指でいじりながら、困ったような表情を見せた。曜子は見かねたように言った。
「……ここにいると、太一を思い出すから」
「……そう、ですね」
曜子はもうすぐ、この学校を離れる。その内容はどうあれ、太一とのたくさんの想い出が詰まったこの校舎を、離れるのだ。それは、寂しいことだった。文字どおり別世界の住人となった彼を感じることのできる、数少ない場所を、曜子は失う。
だから彼女はここにいた。少しでも太一を感じ取ることができるように。残された時間で、精一杯。
「あなたは」と、曜子は訊き返した。「なんでここにいるの」
美希は意外そうな顔をした。曜子自身も意外だった。
かつての曜子なら、他人に反問することなどなかっただろう。やはり群青の判断は正しかったのかもしれない。彼女の人間性は、確かに変化しつつある。
「――今日、バレンタインデーじゃないですか」と、美希は言った。「チョコレートを渡そうと思うんです、好きな人に。だから、緊張しちゃって」
少し恥ずかしそうに俯く美希の前で、曜子は寂しげに微笑んだ。
「同級生の男の子なんですけどね、最近転校してきた。――ちょっと、先輩と似ているんです」
美希は笑いながら言った。先輩、とは、太一のことだろう。
「もちろん、あんなに下品じゃないし、ふざけてもいない。でも、必死でつながりを求めているところはそっくり……。けど、先輩とは、別人」
美希もまた、太一のことが好きだったのだろう、と曜子は思った。
しかし、そんな彼女は、たぶん前向きだ。未だに黒須太一の幽愁から逃れられない曜子とは違って。美希も、太一のことを忘れたわけではないだろう。だが、その想いを胸に抱きつつも前進できる強さを、彼女は持っているのだ。
「どうして……」
曜子は自然と口を開いていた。
「なんで、そんな……私は太一のことが忘れられない」
不純ではあった。彼を愛した動機は、確かに純粋とは呼べないものだった。自己を彼という存在で規定し、そこに依存することで、曜子は確かに外部への動的なアプローチを停止させ、かわりに極端な自動化をおこなっていた。だけど、彼を愛した想いは、やはり嘘ではないのだ。あの日交わした盟約は、曜子の心を揺さぶる唯一の存在として、未だにあり続ける。
「私もです」と、美希。「先輩みたいな人とは、きっともう二度と出逢えない。人生で、一番の恋だった。――だけど」
風が吹いた。
二月の冷たい風だった。
放送アンテナが、空に登った太陽の光を反射して、きらきらと輝いている。
何処かから舞い上げられた枯れ葉が、足元に渦巻いた。
視界の中はモノクロームだった。目の前に立つ後輩だけが、色彩を帯びていた。
彼女は言った。
「――それでも私たちは、生きていかなくちゃいけないんですよ。前に向かって、進んでいかなくちゃいけないんですよ」
お元気で、支倉先輩――そんな言葉を残して、美希は去っていった。六時間目の終了を告げるチャイムが鳴って、もう放課後。チョコレートを渡しにいくのだろう、美希は少しだけ固い足取りで歩いていった。
そんな後輩が残したものがあった。チョコレート。
当然チョコレートなど用意していなかった――必要ないので当たり前だが――曜子に、義理で幾つか用意してきたといううちのひとつを、美希が渡したのだ。
太一先輩のことが好きでしょうがないのなら、たとえこの世界にいなくても、チョコレートあげたっていいと思います。――美希は、チョコを渡しながら、そう言った。
以前の自分なら、いらないと言って返していただろう。けれど今は受け取っている。
やはり、曜子の群青色は薄まっているのだ。支倉曜子という人間は、確実に普通の人間になりつつある。例えば、バレンタインデーのチョコを、こうして持っているような普通の少女に。
空は低い部分がオレンジ色に染まり始め、けれどその天頂はまだ、鮮やかな青を残していた。その中間に漂う雲が、ふたつの色が混ざり合って反射した光の柱を、幾本も突き立てている。
太一をこの目で見た最後の時を思い出す。太一が観測した出口から、現実の世界へと帰還した曜子が最初に見た空も、こんな色だった。
空色という色は、決して薄い青のことではないと、曜子は思う。空色というのは、人生で最も忘れることができない空の色のことを言うのだ。今、眼前に、地平の彼方まで広がる空。その色が、曜子にとっての空色だ。そして彼女は、空色をした天球の真ん中で、圧倒的な虚無に襲われる夢を、いつも見る。
ねえ、太一――あなたも今、この空を見ている?
常に携帯しているラジオを取り出す。曜子は泣きそうになった。
今日は土曜日。明日になれば、太一の声が、このラジオに届くだろう。
そうしたら、きっとこの、美希に貰ったチョコレートを渡そう。
もっとも、それは、無理な話なのだけれど。
変わってしまった。何もかもが、大きく変わってしまった。でも、この気持ちだけは変わらない。
ひょっとしたら曜子も、いつか太一のことを想い出の中にとどめて、美希のように前に向かって進んでいくことができるのかもしれない。でもそれは今ではなかった。曜子は弱い。美希とは違って。別の人にチョコレートを贈ることができるほど、太一の存在は心の中で小さくない。
だから、今は――。
もう一度、空色の天球を見る。
明日は、一日遅れの、バレンタインデーだ。